3.降臨 【3】破壊の天使。降臨


 その言葉自体が冷気を含んでいたように、その場の空気が凍り付いた。

 二人を包んでいた熱気を帯びた空気が、瞬時に冷気に変わる。

 誰もが、その言葉の意味することを理解できずにいた。

 その声は、怒りを含んだ訳でもなく、悲しみを帯びた訳でもなく、ただ静かに発せられただけであった。けして叫び声を上げたわけでもない。静かな声だった。

 しかし、その場にいた全員―─ケルベロスも含め―─が、その声に撃たれたように硬直した。

 拓也のこめかみを、冷たい滴が滑り落ちる。

 拓也は小林の唖然あぜんとした表情を見、そして声のした方へとゆっくりと振り返った。

 そこには、まっすぐに小林を見つめる伊吹が立っていた。

 いつの間にか、いつも掛けている眼鏡を外している。

「―──何故だ」

 伊吹は、もう一度問うた。

 外見とは違い、伊吹が正義感が強く行動的な性格だということは、会社を辞めてまで赴任してきたことで判っていた。

 しかし今はまずい。今小林を刺激することは、正義感以前に無謀な行為であった。それは伊吹自身も含め、此処ここにいる全員の生命が脅かされる事となる。

 しかし拓也がその言葉に凍り付いたのは、その行為の無謀さに驚いた訳ではなかった。

 静かに発せられたその言葉には、人がかつて経験したことのない神々しさを含んでいた。

 このような状況下で、何故このような言葉が発せられるのか・・・・・・。いや、何故人がこのような声を発することが出来るのか・・・・・・。

 例えるなら、燃えさかる炎に飛び込む羽虫に、“何故だ”と問いかけたようだと形容すればいいだろうか・・・・・・。

 明らかに高次の次元から発せられた言葉であり、哀れみにも似た、ただ、疑問を投げかけただけの言葉であった。

「・・・・なぁ・・ぜだぁぁ・・・?」

 小林の歯を咬みしばった口から、ひきつった言葉が絞り出すように漏れた。

 それは、怒りを通り越し、泣き声のようだった。

 先程までこの場を完全に支配し、心地よい高揚感に包まれていた小林が、伊吹の発した声だけで支配権を奪われた事への怒りと、何故か畏怖いふを覚えるその声に戸惑っているようだった。

 小林は、銃口を伊吹の顔へと向けた。興奮に、銃口が揺れている。

「わからんのか・・・・見ろ! この生物を! ・・・・・・俺は・・今俺は、神の力を手に入れたんだ! ・・・・・・創造主をも凌駕する力をだ‼」

 小林は激昂げっこうした。

 それは僅かな時間だったかもしれない。だが拓也には、それが何時間にも及ぶ沈黙にも感じられた。

 その静寂を破ったのも伊吹の声だった。

「・・・・・神? ・・・・それが神の力だというのか・・・・・・?」

「な・・にぃ・・・・・・・・」

 小林の口の端からは泡がこぼれ、目が、吊り上がっている。理性を失う手前だということは、その表情から容易に読み取れた。ぴんと張り詰めた理性の糸は、微少な外力で断ち切れるだろう。

「・・・・私が、見せてやろう」

 意外な言葉に、小林の理性の糸がたわんだ。ほおけた表情に変わる。

 が、次の瞬間。

 怒りに顔を紅潮させた小林の人差し指に力がこもり、銃口から弾丸が打ち出された。

 銃声が辺りに響きわたる。

 伊吹は、身動き一つしなかった。小林は、銃口から立ち上る煙越しに、真正面から自分を見つめる伊吹の姿を捕らえていた。

 銃弾は伊吹の頬を掠めていた。伊吹の頬に、赤い筋が水平に走っていた。

 小林の震える腕が、伊吹の顔面を捕らえていた銃口を、僅かにずらしたようだ。

 しかし、伊吹は顔色一つ変えていなかった。

 そして、小林は見た。それは、拓也にも見えていた。

 伊吹の頬を走る赤い筋が、すうっと端から消えていった。

 小林の表情が驚愕きょうがくのそれに変わる。

 伊吹が一歩前に足を踏み出した。

「ひゃあぁぁぁぁぁぁ・・・・」

 小林が、触れてはならぬ者に手を出した後悔と畏怖の叫び声を上げ、腰を抜かし後ろへと後退した。

 瞳が隣に立つ黒い巨躯を見つめる。

「いっ・・・・・・、行け!」

 伊吹の方を指さし、黒い塊に向かって叫んだ。

 巨躯が唸り声を上げ、宙に跳躍した。

 それを見つめる伊吹の長い髪が、突風を受けたように舞い上がる。

 その時、拓也は見た。

 伊吹の瞳が金色に変わり、光を発するのを。

 次の瞬間。


   ゴウッ!

 

 地から、紅蓮ぐれんの火柱が立ち昇り、異形の生物を包み込んだ。

 炎から吹き上がる強烈な熱風を浴びて拓也の身体が浮き上がり、宙を飛ぶ。

 爆炎は伊吹の身体も包み、螺旋らせんを形作りながら細く高く収束していった。赤い竜巻の如く立ち昇った炎の中で怪物の影が揺らめき、宙を舞った後地面に激突した。

 紅蓮の炎に身を包まれながらも、その怪物の怒号と動きは止むことがなかった。強靱な回復力と生命力が、皮膚を焦がしながらも死を招き入れることを拒んでいるのだ。

 怪物は怒りの矛先ほこさきとして、炎の中から黒く見える人影に向かって飛びかかった。

「ひあ‼」

 小林が悲鳴を上げる。怪物が餌食えじきに選んだのは、自分を産み育てた小林だった。

 小林に覆い被さるように炎の塊が突進し、二つの影が火柱に包まれた。

 炎の勢いが増す。炎の中で、唸り声と悲鳴とが混じり合った。

 異形と化した小林の身体が、炎の柱の中でねじくれる。

 伸び上がる黒い人影を、黒い巨体が引きずり倒す。

 黒くうごめく塊から断末魔の悲鳴が上がり、それに呼応こおうするかのように炎が膨れ上がる。

 どこからその炎は湧き上がってくるのか。

 地面から吹き出し立ち昇るその炎は、遙か天空まで届いていた。

 炎の中から姿を現し、その火柱を見つめる伊吹に、拓也は視線を移した。

 なびかせた白髪を炎の紅蓮に染め、瞳を黄金色に輝かせたその姿は、人間とは思えない神々しさを感じさせた。

 荒れ狂う業火に衣服を焼かれながらも、りんとした姿で立つ女神。

 変貌したその姿に、ある人物の映像を重ねていた。

 完璧な造形を持つ美神。

 5年前に入り江で、拓也が遭遇そうぐうした女の姿がそこにあった。

 炎に揺らめき身体から伸びる影が、羽を広げた天使のように見える。

 今―────。

 地上に、破壊の天使が降臨こうりんした。

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