2.覚醒 【3】目を覚ます人

【3】

 拓也が意識を取り戻したのは朝方であった。

 空は明るく白み始めていた。すずめの声がかすかに、遠くから聞こえている。

 薄く瞼を開いた拓也は、床のグラスを見つめていた。グラスの輪郭がはっきりしてくるにつれ、自我もしだいに戻ってきた。意識はまだしっかりとせず、身体が妙に重たく感じられた。

 力の消失感は消えなかったが、拓也は腕に力を込め、上体を起こしにかかった。

 体が重い―──。

 息を吐きながら体を起こし、四つん這いの姿勢で呼吸を整える。顔を上げ、上体を起こし、大きく息を吸い込んだ。意識がはっきりし、気分が落ちつく。

 急に額と膝に痛みを覚えた。顔をしかめながら額に手を当て、周りを見渡した。

 床に転がるグラスは、中身はこぼれはしたが、割れていないことは幸いした。

(何だったんだ・・・・・・? あれは・・・・・・)

 自分が思い出し得る限り、初めての経験であった。不整脈というものかとも思ったが、不整脈で意識まで失うことなどあるのだろうか。

 その時ふいに携帯電話が鳴った。

 拓也は重たい体を動かし、腕を伸ばして携帯を取った。

 電話から聞こえてきた声は、権藤の声だった。教授が意識を取り戻したらしい。

「本当ですか!?」

 拓也は歓喜の声を上げて尋ねた。

「先ほど病院から連絡がありまして、私もこれから向かうところです」

「分かりました。私もこれから病院に向かいます」

 通話を切った拓也は、眠っていた遙花に教授のことを話し、車を病院へと走らせた。


◇◇◇◇

 病室のドアを開けると、ベッドの脇に、権藤とそれに伊吹が立っていた。

「・・・・妻夫木君・・・・・・」

 ベッドの上から、小野寺教授がか細い声で拓也の名前を口にした。

「小野寺教授・・・・・・」

 拓也も病室の中へと足を踏み入れ、教授が横たわるベッドの脇へと立つ。意識が回復したとはいえ、教授の顔は青ざめ、憔悴しょうすいしきっていた。

 小野寺教授は、視線をずっと拓也の方へ向けていた。

「小林君は・・・・・・彼はやってはならないことを行っていたそうだね・・・・・・」

 力のない悲しげな視線を、拓也に真っ直ぐ向けながら、小野寺教授はかすれた声を発した。拓也は教授の目を見ながら、小さくうなずいた。

「小野寺さん、何があったのか聞かせてもらえませんか?」

 権藤が小野寺教授に尋ねた。

 小野寺教授は天井を見つめ、大きく息をついた。僅かな動きにも痛みが走るのか、眉間にしわを寄せ、目を閉じる。少しの間をおいて、教授は語り始めた。

「彼が・・・・・・小林君が、研究室以外で何かを行っていることは、薄々感じていたんじゃよ・・・・・・。何かの研究に没頭していることは、様子を見れば分かった・・・・・・。しかし、私に何も研究結果を知らせることもなければ、成果を発表することもない。それよりも心配だったのは、彼の異常な憔悴しょうすい具合だった。日に日に彼の顔つきが変わっていくのが分かるんじゃ・・・・・・。そこで私は彼の行動を監視することにした・・・・・・」

 ベッドを囲む3人は、静かに教授の声に耳を傾けていた。教授の瞳が薄く開かれる。

「最近になってようやく私は校舎裏、つまり旧研究棟の近くで彼が姿を消すことに気付いた。そしてあの日、学生の間で噂になっている旧研究棟の話しを聞き・・・・・・恐らく間違いないと。―─彼を問いつめようとも思ったが・・・・・・『何を』行っているのかをず掴もうと、今では私だけしか知らない旧研究棟機材搬入口から地下室に忍び込んでみた。・・・・・・彼の論文内容を知っていた私はある予感があった。そしてもし倫理に外れた研究へと進んでいるのだとしたら私が止めなければならない・・・・・・。だから一人で地下へ行ったんじゃ・・・・・・。だが、廊下はあまりにも暗すぎた・・・・・・。突然檻の間から伸びてきた爪に私は腹を裂かれ・・・・・・そして見た。檻の中に紅く光る目を・・・・・・」

 その時、教授の声だけが響く病室に電子音が響いた。権藤がベッドから離れ、胸から携帯電話を取り出すと、その電子音は止んだ。

 全員、視線を教授の方へと戻す。

「私は意識が遠くなりながら、外へと這い出たんじゃ・・・・・・。もう少し檻の側を私が歩いていたなら、私は今こうして生きていなかったじゃろうな・・・・・・」

 教授はそこで再び目を閉じた。

「妻夫木君・・・・・・」

 教授は瞳を拓也の方に向け、尋ねてきた。

「君は、あれを見たそうじゃね・・・・・・。あれは・・・・一体何なんだ」

「あれは・・・・・・」

 教授の真っ直ぐな視線に、拓也は返答に詰まった。

「怪物です」

「・・・・・・そうか・・・・・・」

 教授は鼻から息を吐きながら顔を天井の方へ向け、再び目を閉じた。

「・・・・・・彼は・・・・怪物を創ってしまったのか・・・・・・・」

 目を閉じた教授は、寝言を発しているかのような、吐息混じりの小声でそう言った。


 病室の扉が開き、権藤が戻ってきたのはその時だった。

「妻夫木先生」

 拓也の耳元で、権藤がつぶやく。

「今連絡が入りまして、変死体が見つかったらしいんです・・・・・・」

 それが自分と何の関係があるのか、聞いた瞬間には分からなかった。もしかすると、ケルベロスが人を襲ったのか? と、考えた拓也だったが、権藤から続けられた言葉は違う内容のものであった。

「・・・・・・それが・・・・死体の素性が猪神製薬所の社員らしいんです。・・・・・・先生もご一緒に来られますか?」

 拓也は、耳元にあった権藤の顔を振り返って見つめ、少しの間をおいてうなずいた。

 権藤も頷くと、早速病室の扉の方へ歩き出した。

 拓也がベッドの方を振り返ると、教授は眠っているように見えた。

「伊吹先生、教授のこと、宜しくお願いします」

 伊吹に小声で声をかけると、伊吹は軽く頷いた。

 拓也は権藤の後に続き、病室を後にした。

 駐車場で、こちらの方が早いですから、と言われ、権藤の車に乗り込むと、車は病院の敷地を出たところからサイレンを鳴らし、現場へと急行した。

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