2.覚醒 【1】車内に吹き上がる鮮血

2.覚醒

【1】 

 深夜。

 あおと黒で染められた森の中に、一台の車が止まっていた。

 天空の明るい月が、蒼い光を地上に降り注がせている。

 車の窓は白く曇り、重なった人影が映っていた。

 その車を凝視したなら、小刻みに車が上下動をしていることが分かっただろう。

 車の中には男と女が居た。

 二人の荒い息使いが、狭い車内に響いている。

 女は男の膝の上にまたがり、男の身体に覆い被さっていた。男は倒した運転席のシートの上に横たわり、首筋を愛撫する女の舌の感触に身を任せている。

 男の身体は快感の境地にあり、体中から力が抜けきっていた。脱力しきった両腕が、シートの両側に垂れ下がっている。

 男の身体の内には今、かつて経験したことのない快楽が駆けめぐり、身体のみならず、思考をもとろけさせていた。白濁はくだくした男の思考の中はただ一点、この快楽をもっと追求したいという欲望で満たされている。


 女が触れた瞬間から、男と女の立場は逆転していた。 

 女のぬめる舌が首筋を這う度、男の思考は薄れていき、立場が逆転していることを気に留める事さえ残っておらず、女に身を任せていた。

 脱力しきった身体が突然、電流に触れたかのように強張り、同時に男の鼻から短い呻き声が漏れる。

 硬直したくびに、女の唾液に混じり、男の体液が混じった。

 女の唇が男の身体から離れ、その首筋を見つめる。

 男の頸部けいぶに、紅い筋が、下方に向かって伸びつつあった。

 暖かい血液が、男の頸から溢れ、流れていた。

 男の感覚は快感の中に埋もれてしまい、傷の痛みをも快感として捕らえていた。

 女は男のその姿に、口元に笑みを浮かべた。

 紅く染まった唇の隙間に、白い歯が覗いて見える。

 月光に照らされたその白い歯は、前歯の両脇の歯が、犬歯の様に鋭利に尖っていた。

 その鋭利な歯が、男の頸の皮膚を裂いたようであった。

 女は再び男の首筋に唇を寄せる。

 溢れ出る男の赤い体液を舌で舐め取り、その体液の流出を待ちきれないように傷口に舌を這わせた。

 裂いた皮膚に舌を潜り込ませ、奥へ奥へと舌を這わせる。

 男の口からは、苦痛にも似たあえぎ声が発せられ始めていた。

 皮膚の内側まで潜り込ませた女の舌が、滑らかな頸動脈けいどうみゃくを捕らえる。

 女は、舌で頸動脈を絡め取り、裂いた皮膚の間から引きずり出した。

 男の喉から細く高い呼気が発せられ、喉元を仰け反らせた。シートに頭頂部を押しつけ喉元を女にさらし、男は未知の快楽に恍惚こうこつ状態に陥っている。

 女は男のそんな状態に満足しながら、引き出した血管をいとおしげに舌先でなぞり上げていた。

 男の全身を、熱く、快楽物質の溶け込んだ血液が駆けめぐり、全身は自身の汗で濡れている。

 短く高い喘ぎ声が、男の口から絶えず漏れていた。

 死んでもいい。

 男の思考は、その状態まで高まっていた。

 まだ先に、今以上の快感が訪れるなら、自分の命がどうなってもかまわない。死の恐怖をも凌駕りょうがする快楽というものがこの先に存在するのであれば、それを味わいたい。

 自分の生命をして与えられる快感に、この身をさらしてみたいという渇望かつぼうに、男は支配されていた。

 男は、女から与えられる次の快感を待ち望んでいた。

 女はそれを察知したのか、再び口元に笑みを浮かべた。

 頸動脈を犬歯に引っかける。

 その犬歯は、真珠のような輝きで月明かりを反射した。

 次の瞬間。

 女は身体を仰け反らせた。

 男の頸から鮮血が飛沫しぶき上がった。

 全身が硬直し、乗せた女を跳ね上げながら仰け反る。

 脳を身体の内側から引きずり出されるような快感。

 男の口が大きく開き、身体を仰け反らせたまま、止むことのない快感に全身の筋肉を強張らせている。

 飛沫しぶき上げる赤い血が、車の天井にまで届いていた。

 白い肌を紅く濡らした女の妖艶ようえんな顔が、男の喉元に向かって倒れて行く。

 ジュルッ。 

 ゴクッ。 ゴクッ。 ゴクッ。

 枯渇こかつしたからだにようやく水を得たように、女は男の頸から吹き上がる体液を、喉に流し込んでいった。 

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