3.出現 【9】廃屋の噂
午後一番の講義後拓也は、研究室でこれまでの研究結果をレポートにまとめていた。
次の講義までは、
研究生達は、
いつも研究生達は、15時を過ぎたこの時間に研究を行うクリーンルームから出てきて、休憩の時間に当てていた。
既に聞き慣れた部屋に響く談笑を耳にしながら、それを気にすることもなく、拓也はパソコンに向かっていた。
「ほーんとだってぇ」
ひときわ大きい、一人の研究生の声が部屋に木霊した。
「せんせーい」
衝立の向こうから、研究生の一人が、顔を覗かせて拓也に話しかけてきた。
「なんだぁ」
拓也はパソコンに目を向けたまま、答えた。
「先生、大学内で最近話題になっている
「噂?」
拓也は手を止め、その研究生の方を向いた。
「どんな噂だ?」
椅子から立ち上がり、研究生達が輪になって座っているテーブルに近づいて行った。
学生達がする噂話など幼稚な話題としか思えなかったが、行き詰まった仕事の気分転換にはなる。そう思いながら、拓也はそのテーブルの脇に立った。
「向かいの校舎裏にある廃屋、知ってますよね?」
「ああ」
「その廃屋なんですけど、夜になると、不気味な唸り声が響いて来るって言う・・・・・・」
衝立の向こうから顔を覗かせていた研究生が、そんなことを言った。
「嘘でしょー?」
女性の研究生が、その研究生に向かって、疑惑の視線を投げかけながら言った。
「ホントだって! 俺の友達も聞いたんだから」
「だって、あそこ、入口がねぇじゃねぇかよ」
「だから不気味なんだって! 誰もいないはずの建物の中から、声がするんだぜ?」
女性の研究生達は、お互いの顔を見合って、不安げな表情を浮かべる。
「先生、この大学出身でしたよね」
「ああ」
「あの建物って、昔、中に人を残したまま、封鎖されたんですよね」
「何? その話し」
「あそこ、細菌を扱う研究施設だったらしいんだよ。ある日感染性の細菌が漏れ出して、中に居た研究員もろとも封鎖したらしいんだ」
誰も口を開く者はいなくなった。室内に、その話しをしている研究生の声だけが響く。
「俺達と同じ、中に居た学生達も巻き添えをくった・・・・・・。研究棟内に居た者達は皆、細菌に侵され病死するか、
研究室を静寂が包んだ。
「馬鹿な噂話は残るんだなぁ・・・・・・。あれは、
研究生達の視線が、拓也に集中する。
「でも、先生が在籍していた時代からあの廃屋、在るんでしょ? 先生も閉鎖した時の事は知らないですよね?」
「確かにそうだが・・・・・・。そんな事実があったなら、世間に知れ渡ってるはずだろう」
「大学側がそんな
「大学がいくら隠そうとしても、遺族が不審に思わないわけないだろう。行方が知れなくなった人物の遺族が捜査しないわけがない。―─大体、そんな危険な細菌、大学で扱えるわけないだろう」
「・・・・・・そうかぁ・・・・・・」
そう言って、その研究生は黙り込んでしまった。
「じゃあ、その呻き声の正体は何なの?」
「風の音じゃないのか?」
「でも、地面の下の方から響いて来るって聞いたぜ?」
「配管が腐って穴が空いたところから空気が流れ込んで、それらしい音に聞こえるのかもよ?」
研究生達は、思い思いの意見を出し始めた。今夜確かめに行ってみようと言い出す者も現れた。
その時、研究室の扉を叩く音が、拓也の背後でした。
「はい」
一番近くにいた拓也は、扉の方へ歩いていった。
扉の向こうには、二人の背広姿の男が立っていた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。私、こういう者ですが・・・・」
手前に立つ年輩の男が、慣れた手つきで胸元から警察手帳を取り出す。
「警察・・・・・・の方ですか」
「私、捜査一課の
「はあ・・・・・・。で、私に何か・・・・・・?」
「はい、大学の方で聞きましたら、その日、先生は大学にお泊まりになっていたとか・・・・・・。何か見ていないかと思いまして」
「ああ・・・・・・」
「中、よろしいですか?」
権藤と名乗る刑事が部屋の中に一瞬視線を送り、拓也を見た。
「あ、ああ、どうぞ」
拓也は2人の警官を中へ通した。仕切りの向こうにある応接椅子に案内する。
刑事達と拓也は向き合って座った。権藤と名乗った刑事は、柔らかな物腰の中にも隙を逃さぬというような目つきをしており、浅黒く精悍な顔つきだった。若い方の刑事は、いかにも正義感溢れた青年、といった感じだ。
いつの間にか研究生達も怪談話に興味が失せたようだ。来客もあってか、一人二人、テーブルを離れ、自分の研究の方へ戻っていく気配がする。
「早速ですが、三日前の夜、先生は
「はい。仕事で遅くなってしまったんで、研究室に泊まったんですが・・・・・」
「何か、変わったことがありませんでしたか?」
「変わったことですか・・・・・・」
拓也は返答に困った。
あの晩に変わった事と言われると、ありすぎるほどあったのだ。
しかし、それをそのまま話していいものか・・・・・・。
「そう言えば、11時過ぎに停電がありましたね」
「それは警備の方からも聞きました。えーと・・・・・・」
そう言って、権藤は手帳をめくる。
「深夜11時18分に停電発生。警備員が電力会社に通報。次の日の早朝5時半に復旧していますね」
「そうですね、私が最後に時計を見たのが11時10分頃でしたから」
権藤は手帳を閉じ、じっと拓也を見つめた。
隣では若い刑事が、両手に手帳と鉛筆を握っている。
「その前後、不審な人物を見かけたり、物音を聞いたということは・・・・・・」
「不審な人物ですか・・・・・・」
脳裏に、あの時扉の窓に映った人影が思い浮かんだ。
拓也は視線を右上に向け、思案した。
考え込んでいる拓也の顔を、権藤の眼が見つめる。
「いや・・・・・・電気が消えて何も出来なくなったもので、すぐにこのソファに横になりましたから・・・・・・」
拓也は視線を刑事の方へ戻した。権藤と視線が合う。
目を細め、口元をへの字に曲げて押し黙ったまま、拓也を見つめている。
拓也には、それが長く感じた。
「そうですか」
権藤は、フッと緊張を解き、ゆっくり腰を浮かした。そのまま立ち上がる。
つられて拓也も立ち上がった。
「今日は突然済みません。―─何か思い出したら、署の方へ連絡していただけますか」
そう言って、名刺を渡される。
「わかりました」
刑事達は扉の方へ歩いていく。拓也は後ろから付いていった。
「―──ああ、そうだ・・・・・・」
扉を開けて出ていこうとした権藤が、何かを思いだしたのか、拓也の方へ振り返った。
「先生、この付近で野犬を見かけたことは?」
「野犬ですか?」
二人の刑事は拓也を見つめている。
「そういえば・・・・・・見かけませんね」
「先生の研究で、そのような動物を扱っていることは?」
「いいえ。うちで扱う動物は、研究用マウスぐらい、でしょう」
「そうですか。いや、ご協力、有り難うございました」
二人の刑事は一礼して、扉を閉めた。
全てを話した方が良かったのだろうか・・・・・・。
拓也は自分の机に腰掛け、外を眺めた。
いつもと変わらない、のどかな風景が広がる。
拓也は、視線を目の前のディスプレイに戻し、データ解析との格闘に取りかかった。
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