3.出現 【8】小林秀一

【8】

 時刻は昼を迎えていた。

 拓也は遙花が作ってくれた弁当を食べ終え、自分でれたコーヒーを飲みながら、外をうつらうつらと眺めていた。昨夜寝付けなかったせいで、寝不足気味だ。

 拓也は椅子に深く座り、コーヒーを口に運びながら、ブラインド越しに窓の外に立つ緑の木立を見上げていた。

 視界の端に、動く物を拓也は捕らえた。

 白衣を着た人物が対面する校舎沿いに、左から右へと足早に移動している。大学研究棟の助手として働いている小林こばやし秀一しゅういちだった。

 小林が助手を勤める小野寺おのでら教授とは共同で研究を行ったこともある間柄あいだがらのため、教授を訪ねて行った時によく見かける。が、拓也は一度も小林とは話しをしたことがなかった。気が合わないからとかではなく、影が薄い人物なのである。性格もおとなしく、どちらかと言えば内向的な性格なのであろう。小林の方からも話しかけてきたことはない。小林はまだ独身のはずだ。年は確か拓也よりも5~6歳上である。研究に没頭すると言うより、研究室の中以外に、世界を広げようとしないタイプだ。

 せわしげな足取りで歩く小林を目で追いながら、拓也は相変わらずだな、と、そう思った。いつも何かに追われているような、おどおどした神経質そうな動きだ。

 裏庭とは言え、その空間は多少の広さを有していた。向かいの校舎沿いに歩く小林は、拓也の視線には気付いていないようだ。

 小林が建物のはしまで辿り着く。角で左右そして一度後方を確認し、その角を左へと曲がり、校舎の影へと姿を消した。

 拓也は違和感を覚えた。小林の今の態度は、ただ角を曲がる際の左右確認の動作ではなく、他人の視線を確認する態度に見えた。そして、小林の向かった方向。そこには何もないのだ。いや、正確には使用されている施設など何もない。

 校舎の裏側は森となっている。昔、研究棟として使われていた廃屋はいおくが一つあるが、別に邪魔にもならないため、取り壊しの対象にもならないような不必要なものだ。

 拓也は外に視線を向けたまま、椅子からゆっくり立ち上がった。

 持ったままのコーヒーカップから冷めたコーヒーを飲み干し、そしてカップを机の上に置き、研究室を出る。廊下を歩き、研究棟から出ると、まぶしい日差しが拓也の全身を照らした。

 向かいの校舎へと歩いてゆき、校舎の裏側へと向かう角を曲がる。


 そこには異空間が広がっていた。

 この校舎は敷地の端にあり、この裏地には木々が生い茂っていた。

 木々が太陽光を遮り、例え太陽が位置を変えても日が射すことがないこの場所は、日が当たる位置に立つ拓也の場所とは違い、空気さえ湿って感じられた。

 ねじくれた太い枝が校舎へと伸びたこの場所は、ときが止まった空間のようだ。

 角を曲がった瞬間に気付いたことだが、そこに、誰の姿も見つけることは出来なかった。

 拓也は校舎の裏側に沿って歩き出す。影に入った途端、冷気が拓也の全身を包んだ。

 人が踏み入れることのないこの場所は、地面も積層した枯葉で作られていた。

 拓也は、その柔らかな地面を歩いていく。

 暫くすると森の中に、木々に覆い尽くされようとしている、廃屋が見えてきた。

 その廃屋は2階分の高さがあり、小さなアパートほどの容積があった。奥の方は、木々が邪魔をして、よく見えない。

 拓也は、その廃屋を見ながら歩を止めた。

 左右を見渡すが、何処にも、人の気配さえ感じられない。

 時間的な経過から言って、小林が消えたとしか思えなかった。この校舎に裏口はない。

 視線を森に戻す。木々と校舎の影となった薄暗い空間に、整備されていない地面と、薄汚れた廃屋が建っている。

 拓也は、森と化した敷地に足を踏み入れた。生い茂る雑草に邪魔されながら、廃屋へと近づく。

 玄関前で立ち止まり、拓也は廃屋を見上げた。

 壁一面に汚れと植物がへばりついている。

 廃屋には窓がなかった。昔、この棟は細菌研究を行う研究室がったらしい。窓がないのは、扱う細菌が外に漏れないためである。

 この棟が使われなくなったのも、危険性のある細菌が漏れたためだという噂もあった。

 そのために解体が行われないのだ、との話しも。

 拓也は廃屋の扉に視線を向けた。

 腐りかけた木の板に、赤い文字で「立入禁止」と書かれてある。

 扉も使用した形跡など、僅かにも感じられない。ここも枯れたつたで覆われているのだ。

 試しに扉のノブを回してみる。

 思った通り、鍵がしっかりとかかってある。

(ちっ・・・)

 ノブから手を離し、手を見た拓也は舌打ちした。てのひらは、黒く汚れていた。

 少なくとも、ここ数週間は誰も触れていない証拠だ。

 その時遠くで、午後の講義が始まる予鈴の音が鳴り響いた。

 小林が何処どこに消えたのかも気になったが、それよりも午後の講義と、手を洗うことが今の拓也には優先だった。

 拓也は、廃屋を眺めながら後方へと歩を進め、それから元来た道を引き返していった。

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