3.出現 【5】伊吹准教授

【5】

 朝。自分の研究室の入口に立ちすくんだまま、拓哉は呆然と研究室内を見渡していた。

 書類が散乱し、荒らされた室内。

 拓也は、大事な資料を踏まぬように注意しながら、部屋の中へと進んだ。

 改めて見れば見るほど、部屋の中は無惨むざんだった。机の引き出しは全て開け放たれ、書類棚の書類は全て床へと落ちている。

 最初は泥棒に荒らされたのかとも思ったが、大学のセキュリティーシステムを破ってまで侵入するほどの金目の物など、研究室にあるはずがない。せいぜいパソコンとか実験装置類だろう。しかし、器具類は残っている。  

 部屋を荒らした人物は、拓也の研究の何らかの資料を探して、書類を散乱させたとしか考えられなかった。

 しかし拓也には、自分の資料にそれほど価値があるモノが思い当たらなかった。

 自分の研究の成果は全て論文か学会で発表しているし、研究内容の詳細を知りたい者にはみずから話して説明してきた。研究成果はオープンにした方が、学問的な発展としては有利だとの持論じろんからである。

 ただの嫌がらせという事も考えてみたが、恨みを買う覚えもない。

 全く疑問だらけな光景であったが、拓也には講義の時間が迫っていた。幸い講義用のノートは鞄に入れていたため、拓也は散乱した書類や書籍の中から、講義に使う教科書を探り出し、部屋はそのままの状態で教室へと向かった。


◇◇◇◇

 時刻は21時を回っていた。

 遙花には「書類整理のため遅くなる」と、早くから連絡を入れていた。

 それは確かに書類整理だった。かつて拓也が経験したことが無いほどの。なにせ、自分が研究を始めた頃からの全ての資料を仕分けし、ファイルし直すのである。しかも何処どこにどの書類があるのかが分からない。

 思わぬ体力仕事をする羽目はめになったことに腹立たしさを覚えながらも、無くなった資料が無いかが気になり、それに部屋がこの状態では全く仕事が出来ない。拓也は午後の講義が終わってからずっと、この作業を行っていた。おかげで今日は何も研究を進めることが出来なかった。やっとこの時間になって目処めどが付いたのである。

 結果、無くなっている資料は無かった。

 それは同時に、この部屋を荒らした人物の目的も分からない結果となった。

 後は元あった場所にファイルや書籍を片づけるだけなのだが、犯人の目的を掴めなかったことの落胆から、体力的な限界が一気に拓也の体を襲っていた。

 体力と気力の限界に加え、空腹感も拓也を帰宅させようという気持ちにさせていた。

 パソコンの電源を落としながら、拓也は食事の事を考えた。食事は外で済ますと、遙花に言ったことを後悔した。遙花に電話したときには何時終わるのか見当が付かなかった為、そう言ってしまったのである。

 家に帰れば遙花が何か作ってくれるかもしれない・・・・・・。今の拓也には、注文して料理が出てくるまでの時間よりも、自宅のソファーに横になる時間が欲しかった。


 自宅へ帰る決意をし、廊下に出て研究室の扉を閉め、出口方向へ歩き出した拓也の前方で、研究室のドアが開いた。

 扉から出てきたのは伊吹准教授であった。

「あ、妻夫木先生・・・・・・」

 拓也を目に止めた彼女が話しかけてきた。

「あ、こんばんは」

「遅くまで、研究熱心ですのね」

 伊吹准教授は自分の研究室に鍵を掛け、微笑みながら言った。

「いや、貴女あなたこそ。お疲れさまです」

 今日自分は研究らしいことを一切やっていなかったし、かといって自室が荒らされていた事を言うのも躊躇ためらわれた。拓也は伊吹へ無難な受け答えをした。

 もしかしたら、自分が居なかった昨日、彼女が不審な人物や物音に気付いているかもしれない・・・・・・。軽く会釈えしゃくしながら伊吹准教授の横を通り過ぎようとした際、そんな考えに歩速を緩めた拓也に、彼女はこう尋ねてきた。

「食事は済ませました?」

「え・・・・・・?」

 拓也は伊吹准教授の前で歩みを止めた。

 彼女の言葉は聞こえてはいた。だが、全く予想だにしなかった質問が彼女の口から発せられたため、思わず問い直したのだった。

「御夕食、まだでしょう?」

「はい・・・まだですが・・・・・・」

 よく考えてみれば、今の時刻を考慮すれば予想がつかない質問でもなかった。その回答も難しくはない。

 しかし、次に伊吹女史の口から発せられた言葉は想定外だった。

「ご一緒にどうですか?」

 まさか彼女から、食事に誘われるとは思ってもみなかった。

 しかも、拓也はついさっき自宅へ帰る決心をしたばかりである。

 が、自分でも意外なことに拓也は、真っ直ぐに自分を見つめる瞳に催眠術にでもかけられたように、こう答えていた。

「いいですよ」

 じゃあ、行きましょう? と、笑顔で出口へと向かい始めた彼女と並んで歩きながら、拓也の脳裏を遙花の顔がかすめた。

 だが、歩を出口へと進めていくうちに、拓也は罪悪感よりも彼女への好奇心が勝っていった。大学に赴任ふにんする前の経歴が全く不明なのだ。しかも普段から無口で、誰ともコミュニケーションをはかろうとしない。ゆえに彼女の研究内容も不明。

 そんな彼女が自分を夕食に誘ってきた。

 不思議と拓也は、体の脱力感が無くなっていることに気付いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る