3.出現 【1】 狩られる少年

3.出現

【1】狩られる少年


 ザッ・・ザザッ・・・・

 暗闇に、草をぐ音が響いていた。

 林の中の草むらを、人影がけていた。

 その歩幅が、小さい。

 獣道けものみちでもない、深く茂った草むらの中を駆ける人影は、少年のものだった。

 少年が林の中を駆け抜けていた。

 息が、荒い。

 息を切らせながら走り続けるその少年の喉からは、荒い息に混じり、ひきつるような細い声が発せられている。

 時折後ろを振り返りながら走るその姿は、背後の暗闇を恐れて逃れようとしているようであった。しかし暗闇は無限に広がり、少年に覆い被さっている。その闇から逃れるのは、不可能な行為に思えた。

 闇にさえぎられ少年の表情は見えないが、顔には恐怖の相が現れていることは明らかだった。その蒼白そうはくの顔色も、あおい闇に溶けて確認できない。

 ぜいぜいとかすれた息からも、体力の限界をとうに過ぎていることは伺い知れるが、少年は走る事を止めようとはしなかった。


 少年は塾の帰りだった。

 親からは、夜にこの林を通ることはめるよう注意されていたが、自宅へ帰るにはこの道を通るのが一番の近道だった。それにこの林は、少年にとって遊び慣れた場所であった。この道を通ることに、少年は何の躊躇ためらいも恐怖も抱いたことはなかった。

 しかし少年は今、そのことに後悔をしていた。


 初めに目撃したのは、一瞬の明かりだった。

 それは道の前方で発光した。

 少年は、まず恐怖よりも好奇心を覚えた。

 その好奇心が、そのまま少年を前方へと進ませた。

 最初の目撃から数歩進んだところで、それはまた発光した。

 今度は発光したまま動かない。

 前方の暗闇に光る発光体は、宙に二つ、並んで光っていた。

 何か、動物の瞳が光っているようであった。

 しかし少年は、光る動物の目というものを見たことがなかった。

 少年の足は止まった。

 光は動かない。

 少年も、それが何かの生き物の光だという事に気付き始めていた。そして、それが自分を見つめているという事も―──。

 何かが、じっと自分を凝視していた。

 辺りはまるで、時間が止まったかのように静かだった。

 その静寂の空気を、何かが震わせているのを、少年は肌で感じ取った。

 その振動は、徐々に圧力を増し、やがて、少年の鼓膜を揺らした。

 それは、唸り声であった。

 少年は恐怖を感じた。

 ―──次の瞬間。

 光が、紅く、その輝きを増した。

 少年は本能的に道の脇へと走り出した。

 後ろへと引き返さなかったのは、平坦な一本道ではすぐに追いつかれると感じたからだ。

 しかし、それはすぐ後悔へと変わった。

 林の土は軟らかく、少年の前進をはばむだけでなく体力を奪い、草は剥き出しの脚の皮膚を切り裂いた。既に少年の脚は、泥と血にまみれていた。

 思考は恐怖と疲労でよどみ、少年はよく知るはずのこの林の中を、奥へ奥へと進んでいた。その先は、深い森であった。

 後方の闇の中で、何かが草を揺らす音を立てた。

「ヒッ」

 それは自分が跳ね上げた小石が立てたものかもしれなかった。

 もしかすると空耳だったのかも知れない。

 しかし、今の彼にそのような判断がつくこともなく、そのかすかな音に大きな圧力を背に受けたように、少年は体力の限界を超えて走る速度を上げた。

 このまま走り続ければ、少年の心臓は恐怖による萎縮いしゅくと、大量に流れ込む血流に耐えきれず、裂けていたかも知れない。

 が、それよりも先に、少年の走りは遮られることになった。

 上がらなくなったつま先が木の根にぶつかり、身体が宙に舞う。走る勢いを殺すことが出来ず、少年は顔から地面に落ちた。

 顔面に灼熱しゃくねつ感が走る。

 少年は立ち上がろうとした。しかし意志とは反して、身体は動こうとはしなかった。

 荒い呼吸だけが止むことがない。

 少年はうつぶせになったままの姿勢で、口に入った土を吐き出す気力さえ失っていた。

 大地が胸を激しく殴打おうだする。

 あまりの振動に、それが自分の鼓動こどうだという事も理解出来ずに、少年はそれを五月蠅うるさく感じていた。


 その鼓動が止んだ。

 少年は呼吸さえ止めていた。

 少年の瞳が動く。


・・・・・GRUUU・・・・・・・・


 少年の鼓膜は、今度ははっきりと音をとらえていた。止まっていた鼓動が、早鐘はやがねのように打ち出す。動く体力さえ失っていたはずの身体が跳ね上がり、尻をつけたまま後退あとずさる。

 背に木のみきが当たり後退は遮られたが、少年はそのことに気付かぬように足で地面を蹴っていた。気持ちだけが後退を続けようとし、少年は後頭部を幹に押しつけた。

 木の枝葉の間から漏れる月明かりが、少年の顔を照らす。

 少年の顔面は泥と血と汗で黒く濡れ光り、涙も鼻水もよだれも垂れ流れ、悲壮ひそうな表情を浮かべていた。

 少年の瞳は見開かれ、暗闇を凝視していた。

 “それ”が、近づく気配がする。

 草を分ける音が、はっきりと聞こえていた。四つ足で歩く、獣が発する音が。

 その音は、ゆっくりとだが確実に、自分の方へ近づいてくる。

 そして。

 闇に、あの、紅い光が輝いた。

 闇の中に二つ―──。

 いや。

 続いて両脇にも二つづつ―──。

 闇の中に、六つの紅い光が並んで発光した。

 それは次第に大きくなる。

 意識は「逃げろ」と叫んだ。しかし身体は、逃げ方を思い出せなかった。

 全身が、おこりにかかったように震え出す。

 そして少年は、月明かりの中に、その光を発する物の正体を見た。

 自分が想像していたよりもでかい。そして、見たことがない生き物だった。

 その異形いぎょうの生物の姿は、次第に大きくなる。

 少年の股間から、湯気が立ち昇った。

 股間から流れ出す体液と共に、体中の力が抜けていく。

 少年の身体を、恍惚こうこつを伴った脱力感が襲い、少年は泣くとも笑うともつかぬ表情を浮かべていた。

(ああ、本当にいるんだ・・・・・・)

 教室で友人と、実在するかどうか議論した光景が、脳裏に浮かんだ。

“―──いるわけねえじゃん―──”

 友人を莫迦ばかにする自分の声が木霊した。少年はその存在を否定していた。

(明日会ったら、あいつに謝んなきゃ・・・・・・)

 視界を埋める、赤く開かれた口腔こうこうを潤む瞳で見つめながら、少年はそんなことを考えていた。

 闇に、誰も聞く事のない残酷ざんこく咀嚼音そしゃくおんが響いた。

 ・・・・・・いや―──。

 その一部始終を見つめる、一つの人影があった。

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