2.白昼夢 【2】 幻影
【2】
拓也は
「ただいまー」
「お帰りなさーい、あなた」
キッチンから明るい声が響き、妻の
「すぐに食事にする? それとも先にお風呂にするかしら?」
拓也から
「ん、先に汗を流そうか」
遙花に背広を渡して、拓也は浴室へと向かった。
脱衣所で衣服を脱ぎ、バスルームのドアを開く。湯気が脱衣所の方まで広がり、暖かい蒸気が拓也を包んだ。
拓也は手にした
顔に流れ落ちる
身体の筋肉が
研究室の扉の向こうに立つ女性。
「・・・い・・・・・先生?・・・」
「・・・・・・は・・・・・・?」
問いかける声に気づき、拓也は彼女の顔に集中していた意識を、現実へと引き戻した。
「何か・・・・・・?」
「あ・・・いえ・・・・・」
「本日より渡辺教授の後任でまいりました、
「あ・・・・、あなた・・・が・・・・・・」
拓也はそう答えながら、伊吹の顔を凝視していた。
研究職という仕事柄か、細い女性的なフレームの眼鏡をかけ、黒く長い髪を後ろで縛っている。何度見ても標準的な日本人の顔立ちだ。化粧でそばかすを隠す事さえもしていないその顔は、地味な印象さえ受ける。
「それでは本日よりよろしくお願い致します」
彼女はそう言うと、軽く笑顔を浮かべ、一礼して去っていった。
拓也は彼女の後ろ姿をしばらく見ていたが、やがて静かにドアを閉めた。
渡辺教授が先学期末、体調不良から急に大学を辞めたため、空いた講義と研究室に新しい
歩きながら、自分の情けなさに気が
・・・・・・またか・・・・・・。
拓也はゆっくり椅子へと腰を下ろし、伊吹准教授の顔を思い出していた。
扉を開いた瞬間は、5年前に入り江で会った女が現れたと思ったのだが、
伊吹准教授と入り江の女とは瞳の色や髪の色、それに何よりも受ける感じが全く違う。
入り江の女には、
拓也は次第に、冷静さを取り戻していった。
考えてみればあの暗い中、月明かりの逆光となった人物の顔など、詳細に記憶しているはずがない。たまたま今、あの5年前の出来事に思いを巡らせている時に髪の長い女性が現れた為、イメージを彼女に重ねて
彼女が現れたときに、逆光となっていたのもそれを助長させたのだろう。
拓也は一人、気恥ずかしさを感じた。
今までも何度か通りすがりの女性を、振り返って見てしまった経験が思い出された。長い髪の女性を見かける度に、あの女の顔が重なる
だが―──。
年々、女の顔がフラッシュバックする頻度が、多くなっている気がする。
特に今日の症状はあまりにも鮮明だった。
5年もの歳月を
確かにもう一度会えたなら、女の正体とあの夜のことを知りたい願望はある。
しかし自分には妻がいる。
遙花のことを愛している。そして入り江の女の「存在」自体を、自分は疑っている。
そんなあやふやな存在に心を砕くよりも、今の生活を守る方が
近頃はそれを、疑問としてさえ感じるようになっていた。
「着替え、置いとくわよー」
「ああ」
妻の声に拓也は目を開き、目の前の湯気の中に回想は消え去った。
拓也は風呂から上がると、遙花が用意してくれた真新しい部屋着に着替え、食卓へと向かう。食卓には出来立ての食事が並んでいた。
拓也は髪を拭いていたタオルを肩に降ろし、テーブルの椅子に腰を下ろした。
「おつかれさま」
向かいに座る遙花がビールの
「おお、ありがと」
拓也はグラスをもった手を伸ばし、
「はい」
「ん?」
遙花が自分のグラスを両手で持ち、笑顔を向けている。拓也は軽く苦笑いを浮かべながらビンを掴む。
「お疲れさま」
遙花が笑みをこぼしながら、グラスに流れる液体を見つめる。
「かんぱ~い」
グラスが
暖かい食卓の風景があった。食卓には夫婦が向かい合って座っている。
二人が結婚して4年半になる。
あの夏の日の出来事があった年の秋、拓也は遙花と結婚した。
二人に子供はいない。昨年二人共検査を受けたが、どちらにも
確かに知人に出産祝いを出すときなど、ふと二人の間の会話が途切れることもあった。しかしその度に、目の前にいる美しい妻を見て、改めて自分の幸せを再確認できていた。
拓也はグラスを置いたまま、目の前に座る妻を見た。遙花は、自分で作った料理の味を確かめるように、小さく
拓也の口元が自然に緩む。先程風呂場で、他の女性の顔が浮かんだことに罪悪感の念を抱いた。
口を動かしながらテーブルの上へ向けていた遙花の目が、拓也の目と合い止まる。
「やだ、何?」
「いや、いいお嫁さんだなって思ってさ」
遙花の視線が拓也に注がれたまま動きが止まり、暫くして頬がポッと桜色に染まる。
「何言いだすのよ、もお~」
頬を押さえながら遙花が
食卓に拓也の笑い声と、遙花の恥ずかしげな声が響いた。
暖かい食卓に、さらに明るさと
それは、残忍な狂獣が目覚めた暗い闇とは、あまりにも対照的な風景だった。
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