2.白昼夢 【2】 幻影

【2】

 拓也は郊外こうがいにある自宅の玄関をくぐった。

「ただいまー」

「お帰りなさーい、あなた」

 キッチンから明るい声が響き、妻の遙花はるかが小走りで駆けてくる。

「すぐに食事にする? それとも先にお風呂にするかしら?」

 拓也からかばんを受け取り、遙花が尋ねる。

「ん、先に汗を流そうか」

 遙花に背広を渡して、拓也は浴室へと向かった。

 脱衣所で衣服を脱ぎ、バスルームのドアを開く。湯気が脱衣所の方まで広がり、暖かい蒸気が拓也を包んだ。

 拓也は手にしたおけで浴槽に張った湯をすくい、一気に身体に浴びせる。熱い湯が、身体に張り付いた疲れと共に流れ落ちてゆく。最後に頭から湯を浴び、大きく息をついた。

 顔に流れ落ちるしずくを払いながら浴槽に足を入れ、肌を刺激する熱さに堪えつつ身体を沈めていく。肩まで浸かり、両手で湯をすくいながら顔面を叩き、そのまま両のてのひらで顔を覆う。急速に湯の熱さが身体が馴染なじみ、拓也は顔をこすりながら大きく長く息を吐く。全身の血管が開いていく感覚に、拓也は一日の疲れが湯に溶けていく心地よさを覚えた。

 身体の筋肉が弛緩しかんし、拓也は目を閉じた。ふと昼間の女性の顔が浮かぶ。


 研究室の扉の向こうに立つ女性。

 呆然ぼうぜんとする拓也の耳に、彼女の声が木霊こだましていた。

「・・・い・・・・・先生?・・・」

「・・・・・・は・・・・・・?」

 問いかける声に気づき、拓也は彼女の顔に集中していた意識を、現実へと引き戻した。

「何か・・・・・・?」

「あ・・・いえ・・・・・」

「本日より渡辺教授の後任でまいりました、伊吹いぶき真世まよと申します」

「あ・・・・、あなた・・・が・・・・・・」

 拓也はそう答えながら、伊吹の顔を凝視していた。

 研究職という仕事柄か、細い女性的なフレームの眼鏡をかけ、黒く長い髪を後ろで縛っている。何度見ても標準的な日本人の顔立ちだ。化粧でそばかすを隠す事さえもしていないその顔は、地味な印象さえ受ける。

「それでは本日よりよろしくお願い致します」

 彼女はそう言うと、軽く笑顔を浮かべ、一礼して去っていった。

 拓也は彼女の後ろ姿をしばらく見ていたが、やがて静かにドアを閉めた。

 渡辺教授が先学期末、体調不良から急に大学を辞めたため、空いた講義と研究室に新しいじゅん教授が来るという話しは聞いていたのだが、女性とは思わなかった。急な話だったため新学期開始には間に合わなかったが、本日からの着任となったようだ。着任早々、他の研究室まで挨拶あいさつに来るとは真面目まじめな人のようだ。

 きびすを返した拓也の鼻から、短い溜息ためいきれた。

 歩きながら、自分の情けなさに気が滅入めいる。

 ・・・・・・またか・・・・・・。

 拓也はゆっくり椅子へと腰を下ろし、伊吹准教授の顔を思い出していた。

 扉を開いた瞬間は、5年前に入り江で会った女が現れたと思ったのだが、瞬目まばたきした次の瞬間にその思いは霧散むさんしていた。彼女の容姿は全くの別人。そして彼女の態度も、初対面の人物に対する対応そのものだった。

 伊吹准教授と入り江の女とは瞳の色や髪の色、それに何よりも受ける感じが全く違う。

 入り江の女には、気圧けおされる程の神々こうごうしさがあった。

 拓也は次第に、冷静さを取り戻していった。

 考えてみればあの暗い中、月明かりの逆光となった人物の顔など、詳細に記憶しているはずがない。たまたま今、あの5年前の出来事に思いを巡らせている時に髪の長い女性が現れた為、イメージを彼女に重ねて幻覚げんかくを見たに違いない。

 彼女が現れたときに、逆光となっていたのもそれを助長させたのだろう。

 拓也は一人、気恥ずかしさを感じた。

 今までも何度か通りすがりの女性を、振り返って見てしまった経験が思い出された。長い髪の女性を見かける度に、あの女の顔が重なる幻視げんしに、自己嫌悪さえも抱いていた。

 だが―──。

 年々、女の顔がフラッシュバックする頻度が、多くなっている気がする。

 特に今日の症状はあまりにも鮮明だった。

 5年もの歳月をた今になっても、あの女の幻影にとらわれているなどあるのだろうか。

 確かにもう一度会えたなら、女の正体とあの夜のことを知りたい願望はある。

 しかし自分には妻がいる。

 遙花のことを愛している。そして入り江の女の「存在」自体を、自分は疑っている。

 そんなあやふやな存在に心を砕くよりも、今の生活を守る方がはるかに大切なのだ。冷静に現状を整理すれば、入り江の女のことを考えてもどうしようも無い。妻への裏切り行為にさえ感じる。そう分析できている自分が、何故入り江の女の事を忘れられないのか。

 近頃はそれを、疑問としてさえ感じるようになっていた。


「着替え、置いとくわよー」

「ああ」

 妻の声に拓也は目を開き、目の前の湯気の中に回想は消え去った。

 拓也は風呂から上がると、遙花が用意してくれた真新しい部屋着に着替え、食卓へと向かう。食卓には出来立ての食事が並んでいた。

 拓也は髪を拭いていたタオルを肩に降ろし、テーブルの椅子に腰を下ろした。

「おつかれさま」

 向かいに座る遙花がビールのびんを両手で持ち、腕を伸ばす。

「おお、ありがと」

 拓也はグラスをもった手を伸ばし、しゃくを受ける。グラスに黄金色こがねいろの液体と白い泡が満ちていった。グラスからあふれそうになった泡を口に吸い込み、テーブルにグラスを置く。

「はい」

「ん?」

 遙花が自分のグラスを両手で持ち、笑顔を向けている。拓也は軽く苦笑いを浮かべながらビンを掴む。

「お疲れさま」

 遙花が笑みをこぼしながら、グラスに流れる液体を見つめる。

「かんぱ~い」

 グラスがんだ音を立てる。拓也は一気にグラスの液体を飲み干し、遙花は2口程飲んだところでグラスを置いた。遙花が拓也のグラスに2杯目を注いでいく。

 暖かい食卓の風景があった。食卓には夫婦が向かい合って座っている。

 二人が結婚して4年半になる。

 あの夏の日の出来事があった年の秋、拓也は遙花と結婚した。

 二人に子供はいない。昨年二人共検査を受けたが、どちらにも生殖せいしょく能力に問題はなかった。お互い、こればかりは天からの授かりものだからと、自然に妊娠する事を気長に待つことにしていた。ここ一年ほどは、夫婦の間でもそのことについて会話をするようなこともなかった。何よりも二人でいることにお互い幸せも感じていたし、夫婦仲も他の家庭に比べればうまくいっている方であろう。これ以上の幸せを望むこと事態贅沢ぜいたくだと、お互い暗黙あんもくの了解をしていた。

 確かに知人に出産祝いを出すときなど、ふと二人の間の会話が途切れることもあった。しかしその度に、目の前にいる美しい妻を見て、改めて自分の幸せを再確認できていた。

 拓也はグラスを置いたまま、目の前に座る妻を見た。遙花は、自分で作った料理の味を確かめるように、小さくうなずきながらはしを動かしている。

 拓也の口元が自然に緩む。先程風呂場で、他の女性の顔が浮かんだことに罪悪感の念を抱いた。

 口を動かしながらテーブルの上へ向けていた遙花の目が、拓也の目と合い止まる。

「やだ、何?」

「いや、いいお嫁さんだなって思ってさ」

 遙花の視線が拓也に注がれたまま動きが止まり、暫くして頬がポッと桜色に染まる。

「何言いだすのよ、もお~」

 頬を押さえながら遙花がうつむく。

 食卓に拓也の笑い声と、遙花の恥ずかしげな声が響いた。

 暖かい食卓に、さらに明るさとなごやかさが加わり、広がった。


 それは、残忍な狂獣が目覚めた暗い闇とは、あまりにも対照的な風景だった。

 

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