2.白昼夢 【1】 扉の向こうから

2.白昼夢

 【1】

 

 ―──5年後―──


 拓也がじゅん教授となりこの研究室で迎える春も、2度目を過ぎようとしていた。

 大学の構内に咲き誇っていた桜も既に散り、新緑の姿に様相ようそうを変貌させていた。日毎に増す陽光がつくりだす木漏こもれ日が、研究室の窓辺に差し込んでいる。辺りからは、午前の講義を終えた学生たちが行き交う明るい声が響き、さわやかな喧噪けんそうを織りなしていた。


 拓也は研究室で一人、静かにくつろいでいた。周りから聞こえてくる音に比べ、その部屋には何も音を立てるものがない分、遠くから流れてくる喧噪がより一層、この部屋の静寂さを際立たせているようだった。

 窓の外に見える木々のまばゆい緑に目を向けながら、サイフォンからカップにコーヒーをそそぐ。周りの喧噪とは別に、その空間だけ世界から隔離されたように、ゆっくりと時間が過ぎていた。

 今日は朝から講義が無く、研究生達も講義に出払っていたため、自分の研究に専念することが出来ていた。思っていた以上に仕事ははかどり、実験の結果が出るまでの空いた時間に、この日初めての休憩を取ることにした拓也であった。

 カップの取っ手を掴んで窓辺まで歩いてゆき、陽光に目を細めながら、白い湯気を立てるコーヒーカップに口を付ける。

(5年か・・・・・・)

 窓の外の深い緑を眺めながら、ふと拓也の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

 今年の夏を迎えれば、あの日からちょうど5年の時間ときが経過することになる。

 あの日、朝霧あさぎりが光を反射する中、拓也はあの高台で目を覚ました。

 しばらくは、その朝霧よりも濃いもやが思考を支配したままで、状況が理解出来ずにいた。その靄が晴れたのは、水平線から現れた朝日の光が網膜を刺激し、そのまぶしさに瞳孔が収縮する痛みを覚えた時だった。

(夢・・・・・・?)

 ようやく活動を始めた脳細胞が出した一つの結論は、そんなありふれたものだった。

 しかし頬には彼女の触れたてのひらの感触が、まだ生々しく残っていた。そしてその後に起こった全身を包む快感。そこから先は、この世のものとは思えぬ快楽に自分の身体が支配され、何が起こったのか全く覚えていなかった。 

 強烈な浮遊感が自分を襲い、身体の至る所で起きる歓喜かんきの嵐が体内を駆けめぐり、自分を包んでいた光が白く炸裂するのを感じたのを最後に、自分は意識を失ってしまったらしい。

 起きあがり、全身に湿った感じが残るのも夜露よつゆのせいなのかどうか、自分では全く判断できなかった。ただ、昨晩寝ころんでいた場所と全く同じ場所に自分がいることと、入江から続くこの坂道をどうやってのぼったのか思い出せないことから、夢を見たのだという結論が最も正しいことに思えた。

 こんな、仕事の合間に一服して脱力感を味わっている時にふと、あのときの細胞が彼女と溶け合うような感覚が、予期せずによみがえる。先程脳裏をかすめた言葉は、未だにあの朝の答えに納得できない自分に対して、自嘲じちょうの念が生み出した言葉だった。

 立ち昇る湯気が消えたカップに目を落としながら、拓也は口元に苦笑を浮かべた。

 あのときの答えに自分が納得出来ずにいるのは、あの出来事が現実のもので、彼女にまたうことを期待してのことだという事は、拓也本人が自覚していた。


 トントン。

 扉を叩く音に、拓也は意識を現実へと取り戻した。

 今日は来客の予定はないはずであった。カップを机に置き、入り口へと歩を進める。

「はい」

 拓也は、訪問者の人物像を思い描きながら、扉へと近づいた。

 扉のノブに手をかけながら、やはり、扉の向こうの人物像は想像できなかった。

 ノブを回し、扉を引く。外の光が一斉に射し込んできた。

 扉の向こうに、人影があった。

 眩い陽光の中に立つその人物―──。

 

 4月も終わりにさしかかった晴れた日の午後。拓也は初めて白昼夢はくちゅうむを体験した。

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