1.夏の夜の夢 ーヴィーナスとの邂逅 ー

 盛り上がった海面から水面みなもが弾け、水滴が光の粒子となってちゅうを舞った。

 天に昇るしずくは月明かりを反射し、光を放つ宝石の如く闇夜に広がってゆく。

 まるでスローモーションのように黄金に光る粒子は天に向かって延びてゆき。

 それを追うように水面から黒い影が現れた───。

 影の向こうで輝く月がシルエットを鮮明に浮かび上がらせ、輪郭を金色に輝かせる。

 そのシルエットが人の、それも女の姿であることに気づくまで、拓也はしばし時間を要した。視覚は人の形を捕らえているのだが、意識がそれを美の化身としか理解できずにいたのだ。

 長い髪が月光を浴びて黄金色に輝き、美しい弧を描きながらそらへと延びてゆく。

 宙へ舞い上がった光の粒子たちは、しばらく重力を忘れたかのように空にとどまり、まるでそこだけ時間が止まったのではないかと錯覚させた。

 その中央では、黄金色に輝くシルエットが天を仰ぎ。

 高く舞っていた光たちがその周りを、ゆっくりと輝きながら下降していった。


 時間にすればそれは一瞬のことであったであろう。しかし拓也の意識はそれを無限の時間として感じ取り、完全にその光景に心を奪われていた。

 ───ヴィーナスの誕生───。

 それはまさに、その瞬間の光景であったのかもしれない。

 やがて、刻はゆっくりと動き出し。

 光の粒子は輝きながら水面へと吸い込まれ、そこで青白い波紋を広げていった。

 暗い海中から出現したその女神は天を仰いだままの姿勢でとどまり、頭頂から伸びた髪は途中から海中へ溶け込んでいた。

 その姿を月光が、くっきりと浮かび上がらせていた。

 

 緩やかな曲線を描く額。

 真っ直ぐに天へと伸びる整った鼻梁びりょう

 形の良い唇からあごへと続くライン。

 長く伸びたくび

 そして、それに続く乳房の曲線───。


 まさに「美」が水面から浮き上がり、黄金色に輝いていた。月からしたたり落ちた光の滴が、静寂を保っていた漆黒しっこくの海に落ち、その波紋の中から美神が出現したかのようだった。


 やがて人影はゆっくり額を起こし、暗い海中では見られぬ光を求めるように、月の方へと顔を向けた。

 接する水面は、そこから青く光る波紋を生じさせ、女の命の波動に夜光虫が呼応こおうしているかのようだった。

 女は、しばらく月を見つめていたが、その光を十分に受けたことに満足したように振り返り、水面の青い光に目を向けた。

 青い光はそれに呼応するように輝度きどを強くし、波紋の輪を広げる。

 そして波紋は次第に後方へと伸び、女の上半身が姿を見せ始めた。

 前方の光はかすかな強弱をつけつつ発光し、その度に上体が水面から現れる。

 女は、浜に向けて歩み始めていた。肢体したいは既に腰のあたりまで現れ、したたり落ちる水滴が、輝きながら水面へと消えていく。そして───。

 女の視線がゆっくりと上がる。

 後方へと伸びていた青い光が追いつき、同心円状の波紋を作る。

 女の動きが止まった。視線を真っ直ぐに前方へと向けている。

 その視線の先に、岩の上に立つ拓也を捕らえたようであった。女に思考を奪われていた拓也もそのことに気づき、我を取り戻した。

 静かな刻が流れる。

 拓也にはそれが何時間にも感じられた。

 女の表情はシルエットとなってよく見えなかった。

 その見えぬはずの女の口元が、微かにほころぶのを拓也は感じ取った。

 青い輝きが再びざわめきだし、人影がゆっくりと前進を再開した。

 ゆっくりと。

 しかし確実にその姿は水の中から姿を現しつつあった。

 くびれたウエストから長く緩やかに続く曲線。

 そのラインは腰から下へとさらに長く伸び、くるぶしへと続いていた。

 その曲線にわずかな乱れもないことから、女が裸身であることは想像できた。

 そして遂に女の素足が、白い砂浜を踏みしめた。 

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