第14話 三条西洞院にて 其の弐
「左中将を許してやる気はないのか」
「
喘ぐ息の間でも、幾度か耳元に問いかけられた。
「俺は狐だよ」
消えかけた燈台の皿に油を注ぎ、芯を少し引き上げる。
「狐……」
再び細く上がる火に、横たわる白い背中が浮かぶ。
「御偉い方々に御前をなだめすかせと命じられて来た」
「だから、道雅様のふりをして」
「ああ。あの男は御前とは別れたいそうだ。何とかいう法師への依頼も、
「貴布禰……とは」
「俺は頼まれて、それを伝えに来た」
「何の事なの、分からない……でも、それをしたならば、どうなると言うの。狐、御身が何かして下さるとでも」
うつ伏せて横たわったまま、顔だけをこちらに向ける。
「そうだな。道雅の代わりに来てやろうか。俺では不服か」
手を伸ばして、床に這う長い髪に触れる。
「狐が何故、そのように白い手をしているの。あの方よりも綺麗な手。でも、御身が人でも狐でも嫌……あの方が良い」
低く細い声が、随分と心地良い。
「嫌われたものだな。あの男のどこが良いと言うか。御前があれを許さぬのなら、俺は御前を害するやも知れぬ。あの男の破滅を望むのか。ならば、俺は御前にそれを望まねばならぬ」
「御身は、そのために来たの」
「いいや……今は何もする気はない」
それをするのは関白の周辺の者達だろう。では、俺は何をするためにここにいる。女の喜悦の声を聴きながらも、何度か自問した。
「できるのなら、あの方と二人して死にたいのに」
「迷惑な言い草だ。あれにはその気などない。他の男たちにも、そのような気はなかろう。もちろん、俺もだが」
「御黙りなさい、狐。私は御身ごときが口を利ける者ではない」依然、気だるい声で囁く。
本心ではなかろう。このような強がりしか言えぬのか。思いのどこかで、女に気を許しそうになる。
「今更に言うな、言葉のみか、身をも交わしておいて。
位極めた者の落ちぶれた末か。言葉にするには残酷すぎる。
「似ている……そうね、同じ御方に恋い焦がれて」
「同じ御方と。
「いつも、あの方の傍におられる。最初は、私自身の姿かと思うていた」
直衣の胸元に顔を押し付けて囁く。幸親はその背に腕を回し、指に髪を絡ませる。
「
「十二歳で
「分からない。でも、夢の中でも御二人は共におられる。だから私は恨み言しか言えない。
「そうか、御前が焦がれるのは、姫宮に慕われる道雅なのだな。姫宮が傍におられねば、詰まらぬ男に過ぎぬ者を」
誰かが見ている……眉間に気配を感じた。俺を見ているのか、女を見ているのか。
「御前の許に忍んで来た
次第に眉間への圧迫が強くなる。誰が俺に悪意を向けているのか。
「狐、御身は何者」凱子の押し殺した声が、耳元に囁く。
その肩越しにもう一人の女がいる。丈を超す黒髪が
「御前こそ何者か」
その顔のない女を抱いている事に気付いた。指に絡めた髪が腕を伝い、背中や首にも絡みつく。口の中で神将の名を唱える。果たして、目暗ましならばと
指が動く。
目を上げると、顔のない女は幸親の前に座っている。
「
「ただの若造だよ。御主は
「
「いいや、
「我らごとき、利で動く輩を嘲笑う暇があらば、内裏に仕える犬らしゅう、公卿の機嫌でも取るが良かろう」
それをしているから、貴様と対峙しているのが分からぬのか、田舎者が。内心で毒づきながら懐に手を入れる。
女の姿が揺らぐと、髪の毛だけを残して背後の闇に溶ける。闇よりも黒い髪は、宙に漂いながら、幾重にも筋を引いて蠢く。趣味の悪い脅しだと幸親が思った刹那、一筋が鎌首をもたげ、獲物に食らいつく蛇のように首に絡む。
「幾度も芸のない事をするな」
懐中の
知らぬ者が見れば、奇妙な墨書のある
「
首筋を撫でながら幸親は笑う。
大きく息を継いで目を開ける。幸親は畳に敷かれた
「すまぬ。御前を抱いたままくたばる様な、無様はしとうなかった故に」
常世が絞め殺した女は、法師のものらしき叫び声をあげて消え失せた。あの坊主、いつから俺たちを見ていたのか。気付かぬ俺も甘すぎる。法師と自らの双方に、無性に腹が立つ。
まやかし同士の争いならば、弱気になった方が負けだ。俺の手では常世すらも鬼神になるか。童形の者よりも心強い。少しばかり満悦してほくそ笑む。
今頃はこの屋敷のどこかで、負けた法師がひっくり返っているだろう。様を見ろと罵り、人が気付く前に逃げ出さねばと思い出す。
褥の上に横たえた凱子に広袖の
燈火に
西門近くの
「あれ、若君、御早い御帰りで」
例によって
「馬の用意を頼む」息を継いで命じる。
芳紀が先に立ち、木戸を潜る。手際よく馬に手綱を付け、
「沓は如何なさいました」
「懐の中だ。詳しい話は後にしろ。坊主や
「逃げ出すにも沓も扇も忘れて来ないとは、若君もなかなかに素質がありますな」芳紀は笑う。
「訳の分からぬ事を言うな」
この後、
下野守の屋敷には、幾人かの
額の辺りに様子を見ながら、何度目かの後悔の念にかられる。もう
別の部屋では、気が付いた法師が、二階棚の上の
一安心すると急に眠気が襲う。鬼を使うのは殊の外、体力を消耗するらしい。
屋敷に帰り着き、話は明日にしろと言い捨てて寝所に直行する。辛気臭い香を焚いた衣はさっさと脱ぎたい。
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