第11話 右京八条第にて

 幸親が袖の下で手印しゅいんを組む様を、當子とうこ内親王は微笑みながら見る。雑多な鬼は姫宮に近寄る事も出来ない。それ故に左中将にも近付かない。おかげで、鬼どもは幸親の方にやって来る。袖を振るだけで大挙して逃げ出す輩だ、然程さほどの害はない。

 意識すれば姫宮の姿ははっきりと見える。上座に座る道雅の横に、当たり前のように座っている。穏やかな目元も、薄い唇の形も、緩やかな頬の線も、弟のの宮にそっくりだ。


 午後の早い内に寮を出て八条に向かった。話を早々に切り上げて退散するつもりだったが、対面までに長く待たされた。

 冬の短い日は大きく傾く。土御門西洞院つちみかどにしのとういんの屋敷に戻る頃には暗くなっているだろう。逢魔が時ともなれば、住み慣れた北辺でも物騒だ。共に連れた芳紀よしのりは闇を怖がる男ではない。だが、夜に出会う見知らぬ者は恐ろしいと言う。物の怪の類とは思わないが、追い剥ぎ、夜盗の類かと疑ってしまう。大和源氏やまとげんじという武門の家に生まれた芳紀でも恐れる。荒事には不慣れな幸親が恐れない訳がない。いざとなれば、祖父より教わった目くらましは有効かもしれない。

 そのように思い始めた頃、ようやく左中将は現れた。西日が寝殿しんでんひさしまで入り込み、長い影が母屋もやの内まで伸びる。いつの間にか母屋の内に座る姫宮の影は、どこにも差していない。青い唐衣からころも韓紅からくれない表着うわぎ、椿のかさねの五つ衣、背後の床には白い裳と長い黒髪が広がる。

 左中将が上座に付くと、当然のように隣に座る。しかし、姫宮が立ち上がる姿も歩く姿も幸親は見ていない。

「昨夜はよう眠れた。感謝しておる」妙に素っ気なく左中将は言う。

くだんの者は現れなかった御様子ですね」

「ああ。そして御身おみの言うた通りだ。すぐ近くに當子がいるのが分かる」珍しく外連けれんのない笑顔を見せる。

「お分かりになりますか、よう御座いました」

「夢には姿を見たが、うつつには見えぬのが口惜くちおしい」

 それは申し訳ない、俺にはかなり鮮明に見えている。あの女には似ていない。邪気も妖気もない。斎宮いつきのみやでいた時もこのような清廉な人だったのか。しかし、生前の姫宮に会ったならば、印象も変わっていたかもしれない。退下たいげして都に戻った姫宮は、道雅との恋に落ちて一人の女性に戻ったはずだ。

「では、私は私の仕事をしに参ります」単刀直入に幸親は言う。

「御身に言われた通り、凱子ときこにはふみを遣わせてある。本当に今宵、会いに行くのか」

 件の女は、三条西洞院の下野守しもつけのかみの屋敷に宿下がりしている。養母の娘で義理の姉が、その屋敷の北の方として留守を預かる。凱子にしてみれば、数少ない身内だ。

「あまり、先延ばしにしとうはない故」

「そうか」そして左中将は、はたと手を打つ。

 簀子縁すのこえんに控えていた下仕えの者が立ち上がり、脇に置いた盆を捧げ持ってくる。盆の上にはきちんとたたまれた直衣のうしが置かれている。

「慎みて拝借申し上げます」

 前に置かれた衣越しに頭を下げる。

「返す事など考えずとも良い」左中将は再び笑う。

 そちらは笑っていられるだろうが、俺は笑う気にもなれない。今日も内心で毒づく。

 左中将から見れば、俺の服装はつくづく頂けないのだろう。幸親にも一応、自覚はある。隆国からも辛気臭いの、地味で貧相に映るのと言われる。裕福な受領ずりょうの家なのだから、もう少し贅沢をしても良かろうと、高位の知人らは言う。幸親にしてみれば、早くに家を離れたのだから、生活面で父親の世話になるのは潔くない。その援助で贅沢に走るなど言語道断だ。

「では、これよりまかりて支度を致します」少し不貞腐れ気味に言って、再び頭を下げる。

「うむ。大儀であった」笑い顔を引き締める左中将はうなずく。

 自ら衣を捧げ持って、寝殿を退出する姿が滑稽に見える事は、背中に感じる視線で承知している。自ら荷を持つ事のない者に、俺たちの苦労が分かるものか。幸親は益々不機嫌になる。

 縁を通り東対ひがしのたいきざはしまで来ると、庭の隅で控えていた芳紀が呑気のんきな地顔でやって来る。仏頂面で衣を押し付けると、揃えて置かれた浅沓あさぐつを履く。

 車宿くるまやどりに繋いだ馬を引き出し、屋敷の下仕えに礼を言い、東門から出る。日の沈んだ西の空は、赤い色も褪めつつある。

「家に帰る前に、少し寄りたい所がある」

「賀茂の御屋敷ですか」くつわを取る芳紀は聞く。

「いや、堀川の戻橋もどりばしだ」壺鐙つぼあぶみに左足を置いて幸親は答える。

 北辺に着く頃には夜も更ける。そこからまた屋敷に戻り、更に三条に行く。長い夜になりそうだ。

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