第10話 帰宅・陰陽寮にて

 両親たちは、融子ゆうこがなかなか起きないのを心配するかもしれない。もっとも昨夜の内に幸親が帰らなかったから、当たり前の事と思っているだろうか。

 夜具を引き被ったままの融子の頭に手を置き、何と声をかけようかと戸惑う。今こむよ、ではあまりに間が抜けている。気の利いた言葉が浮かんで来ない。

「御前のためにも、俺は変わらずにいる。だから俺のために祈っていて欲しい」

 何の事やら、これでは分かるまい。むしろ分からない方が幸いか、ため息交じりに笑う。

「夜が明ける前に行かねばならぬ。今少し待っていてくれ、必ず戻るゆえに」

 妙な言い訳だ、自分の言葉に何やら恥ずかしくなる。このような時に饒舌じょうぜつになっているのも言い訳がましい。肩の力を一気に抜き、意を決して立ち上がる。

 足音を忍ばせてたいから伸びる渡殿わたどのに出ると、既に供の者が控えている。乳母子めのとごの兄の芳紀よしのりは、この類は熟知しているらしい。戸惑い気味の若い主の先に立ち、屋敷の下働き達に命じて馬の支度をさせる。

 蹄の音が聞こえているだろうか、そのような事を思っていると脇から呑気な声がかかる。

「御屋敷に戻られますか、大内裏たいだいりに参られますか」

「ああ、一度、屋敷に帰って着替えたい。午後からは左中将の屋敷に行くが、そちらは寮から直接に行く。その後は、そうだな、もう一度、夕刻に帰る。湯あみがしたい故に、用意を頼む。夜半にまた出かける、供を頼む」

「お忙しゅう御座いますな」芳紀が間延び気味に笑う。

「まったく、ろくでもない用事ばかりだ」

「ところで、後朝きぬぎぬの使いは如何いかが致しますか」

「きぬ……」思わず絶句する。

 それは俺に歌を詠めという事か、内心で叫びたくなる。祝詞のりとでも真言しんごんでもいくらでも出て来るが、そのようなものはついぞ浮かんで来ない。どうにもならない時は、誰に代筆を頼むべきか……得意な者が身近にいただろうか。

「如何なさいました、若君」

「そうだな、いましに頼む事になろうが……汝、歌は得意か」

 頭が痛い、胸が苦しい。


 陰陽寮おんようりょう太政官だじょうかんの北、中務省なかつかさしょうの東隣りに位置する。中庭には小さいが端正なやしろが置かれ、人々は守護神と呼んで崇める。

 内裏だいりに上がるために着替えた衣冠いかんのまま、幸親は玉砂利の上に座り込む。守護神の社に対峙する姿を、天文生てんもんしょうらが遠巻きにして、遠慮がちな眼差しを送る。そこにやって来たのが、源隆国みなもとのたかくにだった。

 恐れも風流も知る若い公達きんだちには、訳の分からない大胆な所がある。若い者らを押しのけて中庭に降りると、玉砂利を蹴散らして幸親の横にどっかりと腰を下ろす。

「マツやイワに無理難題を言われているにしても、昼日中からそのしかめ面は何とかしろ。皆が無用な心配をしておろう」

 幸親は狼狽気味に、不意の訪問者の顔を見据える。

「何なのだ、そのマツにイワというのは」見据えた後、口を開く。

「マツは左中将、イワは権大納言の幼名だ」

「ああ、なるほど」つまらなそうに幸親は答える。

「時に御主おぬし何故なにゆえ、そのように仰々しい格好をしている」ついでのように隆国が聞く。

権博士ごんのはかせに付いて、つまらぬ奏上をしに内裏に上がったからだ。もっとも俺は何もせずに、庭先で控えていただけだが」

「つまらぬ奏上をするのか、御主らは。おまけにそのために逐一着替えるのか」

「ああ、上の趣味と仕事の手前ゆえにだよ」こうぶり際の額を掻きながら投げやりに答える。

「それも難儀だな。俺なぞ、この何か月、衣冠で出仕した事もなければ、束帯そくたいなど節会せちえ以外で来た事もない。昼間でも宿直とのいでも、この格好だ」

 立烏帽子たてえぼし直衣のうし姿の蔵人くらうど右近衛少将うこんえのしょうしょうは袖を上げて笑う。

「それで御主、何をしに来た」露骨に鬱陶しげな声で幸親は聞く。

「春宮府で左中将邸の物の怪の噂を聞いたぞ」笑い顔のまま隆国は答える。

 春宮府という事は、春宮大夫とうぐうだいぶも兼任する権大納言が噂の出どころか。どうにかしろ、名を立てるなと言った本人が、どうしてわざわざ噂を広める。挙句にこの男の耳も入れてくれるとは。

「物の怪ではない、おそらくは」あくまでも、さりげなく答える。

 物の怪が出たのは夜中の辻で、屋敷では夢に女が立って恨み言を言っている程度だ。話題が勝手に独り歩きし始めている。

「やはり知っておるか、詳しゅう聞かせろ」意気込む隆国が袖をつかむ。

「御主に話した日には、日が暮れる前に都中が知る」

「いくら俺でも、それは無理だ。御主の祖父おおじ殿ならば、鬼を使うて広めたやも知れぬが」

「祖父は鬼など使わなかったぞ」少なくとも俺の前では。

「では曽祖父おおおおじ殿か」

「そちらは知らぬ、顔も知らぬ」

 袖を払いのけ、社の千木ちぎに目を遣る。隆国の暴露癖にも困ったものだ。自分が関わる事には、人一倍口が堅いのに、関係のない噂となれば喜んでふれ回る。

「それで、御主はどこまで知っているのだ」改めて友人に向き直った幸親が聞く。

「左中将が太皇太后様に仕える女房に通うておられる。そこにはどうやら、関白様も御忍びで云々」

「まあ、マツもタヅも互いに知らなかったらしい。マツは女と切れたい。イワがそれを知り、マツに手を貸せ、タヅの名は立てるなと仰せになる。どうやらタヅも、女には食傷気味だそうだ」

 関白頼通の幼名はタヅという。色白で頬のたるみ始めた関白の顔を思い出す。関白にしても左中将や権大納言にしても、幼名で呼ばれた時代があったのだな。今更ながら変な実感がわく。さぞかし、皆にかしずかれ、大事に扱われ、尊大で生意気な懈怠けたいの悪い子供だったのだろう。隆国の子供時代を思い出し、幸親は口の端で笑う。

「どれもこれも、好色では負けておらぬな」

 その笑いを勘違いしたか、隆国も笑い返す。

「マツの屋敷に出る物の怪とやらは、どういう関係だ。御主ならば知っておろう、教えろ」再び袖をとらえて意気込む。

 さて、どこまで話して良いものか。

「権大納言の言うには、女が何とか言う法師を雇い入れたとか。法力自慢だそうだ。その者が何かをしておるのではないのか」

「という事は、呪詛ずそか」顔を近づけ声を潜める。

「真偽のほどは知れぬ。確かめようにも、あまり大物に声をかけて周囲に知られとうはない。俺くらいがちょうど良いと踏まれた訳だ」袖をつかまれたまま、自暴自棄に言う。

 この話を隆国はどうとらえるか。摂関家に関わる事だ、喜んでふれ回るとは思えない。関白に何かあれば、自らの出世に大きくひびく。

「呪詛騒ぎに公卿が関わるとなれば、太政官が黙ってはおるまい。御堂みどう家でのうても潰したい話だ。常套手段に出たか」

 何の常套手段だ、文句の一つも言いたかったが自制する。

「しかし、御主は天文生であろう。手に負える事なのか」

「負えぬ、と思う。故に陰陽権博士おんようのごんのはかせを紹介すると言うたが、左中将は納得せぬ。高名な者は駄目なのだろう」

「御主とて、存外に有名人だが」

「悪目立ちしておるな、確かに。地下じげの若造のくせに、なりも態度もでかいからだろう」

「そこまでは言わぬ。それはそうと、相手の女房には会うた事があるのか、御主」

 どうやら、太皇太后の土御門殿つちみかどどのを訪問できるよう、関白に口を利いてくれという頼みは、すっかり忘れられているようだ。権大納言の申し出に乗って正解だった。

「一昨日、初めて会うた」

「どのような女だ」

「まあ、美しい御方ではある。だが、うすら寒い気をまとうた女性にょしょうだ。それでのうても、土御門殿は鬼の住処すみかに等しい。鬼を集めるような気を持つ者が幾人かおるようだ。まあ、俺も人の事は言えないが」

「では、御主の家にも鬼があふれておると」声を更に落とす隆国は、幸親の袖を離す。

「心配するな、御主の家にも二十や三十はおる故に」離された袖を眺めて答える。

 友人の顔を凝視した隆国は、にじるように少しばかり後ずさる。

 人に悪さをする程に強者の鬼は、そうそうお目にかかれるものではない。土御門殿でも、寄ってくる気配を袖の下で指を組んで、何度も弾いた。大概は造作もなく、弾き飛ばされた。

 左中将の屋敷でも、ふらふらと寄ってくる小物を弾いてみた。面白い事に左中将本人には寄り付こうとしない。やはり、あの内親王ひめみこの力は格別のようだ。

 姫宮は凱子ときこという女を、どのように思っているのだろうか。左中将を害そうとする意が見られるのなら、決して放ってはおかないだろう。しかし、積極的に排除する様子も見えない。従姉妹の姫と知って、大目にでも見ているのだろうか。

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