第10話 帰宅・陰陽寮にて
両親たちは、
夜具を引き被ったままの融子の頭に手を置き、何と声をかけようかと戸惑う。今こむよ、ではあまりに間が抜けている。気の利いた言葉が浮かんで来ない。
「御前のためにも、俺は変わらずにいる。だから俺のために祈っていて欲しい」
何の事やら、これでは分かるまい。むしろ分からない方が幸いか、ため息交じりに笑う。
「夜が明ける前に行かねばならぬ。今少し待っていてくれ、必ず戻るゆえに」
妙な言い訳だ、自分の言葉に何やら恥ずかしくなる。このような時に
足音を忍ばせて
蹄の音が聞こえているだろうか、そのような事を思っていると脇から呑気な声がかかる。
「御屋敷に戻られますか、
「ああ、一度、屋敷に帰って着替えたい。午後からは左中将の屋敷に行くが、そちらは寮から直接に行く。その後は、そうだな、もう一度、夕刻に帰る。湯あみがしたい故に、用意を頼む。夜半にまた出かける、供を頼む」
「お忙しゅう御座いますな」芳紀が間延び気味に笑う。
「まったく、ろくでもない用事ばかりだ」
「ところで、
「きぬ……」思わず絶句する。
それは俺に歌を詠めという事か、内心で叫びたくなる。
「如何なさいました、若君」
「そうだな、
頭が痛い、胸が苦しい。
恐れも風流も知る若い
「マツやイワに無理難題を言われているにしても、昼日中からそのしかめ面は何とかしろ。皆が無用な心配をしておろう」
幸親は狼狽気味に、不意の訪問者の顔を見据える。
「何なのだ、そのマツにイワというのは」見据えた後、口を開く。
「マツは左中将、イワは権大納言の幼名だ」
「ああ、なるほど」つまらなそうに幸親は答える。
「時に
「
「つまらぬ奏上をするのか、御主らは。おまけにそのために逐一着替えるのか」
「ああ、上の趣味と仕事の手前ゆえにだよ」
「それも難儀だな。俺なぞ、この何か月、衣冠で出仕した事もなければ、
「それで御主、何をしに来た」露骨に鬱陶しげな声で幸親は聞く。
「春宮府で左中将邸の物の怪の噂を聞いたぞ」笑い顔のまま隆国は答える。
春宮府という事は、
「物の怪ではない、おそらくは」あくまでも、さりげなく答える。
物の怪が出たのは夜中の辻で、屋敷では夢に女が立って恨み言を言っている程度だ。話題が勝手に独り歩きし始めている。
「やはり知っておるか、詳しゅう聞かせろ」意気込む隆国が袖をつかむ。
「御主に話した日には、日が暮れる前に都中が知る」
「いくら俺でも、それは無理だ。御主の
「祖父は鬼など使わなかったぞ」少なくとも俺の前では。
「では
「そちらは知らぬ、顔も知らぬ」
袖を払いのけ、社の
「それで、御主はどこまで知っているのだ」改めて友人に向き直った幸親が聞く。
「左中将が太皇太后様に仕える女房に通うておられる。そこにはどうやら、関白様も御忍びで云々」
「まあ、マツもタヅも互いに知らなかったらしい。マツは女と切れたい。イワがそれを知り、マツに手を貸せ、タヅの名は立てるなと仰せになる。どうやらタヅも、女には食傷気味だそうだ」
関白頼通の幼名はタヅという。色白で頬のたるみ始めた関白の顔を思い出す。関白にしても左中将や権大納言にしても、幼名で呼ばれた時代があったのだな。今更ながら変な実感がわく。さぞかし、皆にかしずかれ、大事に扱われ、尊大で生意気な
「どれもこれも、好色では負けておらぬな」
その笑いを勘違いしたか、隆国も笑い返す。
「マツの屋敷に出る物の怪とやらは、どういう関係だ。御主ならば知っておろう、教えろ」再び袖をとらえて意気込む。
さて、どこまで話して良いものか。
「権大納言の言うには、女が何とか言う法師を雇い入れたとか。法力自慢だそうだ。その者が何かをしておるのではないのか」
「という事は、
「真偽のほどは知れぬ。確かめようにも、あまり大物に声をかけて周囲に知られとうはない。俺くらいがちょうど良いと踏まれた訳だ」袖をつかまれたまま、自暴自棄に言う。
この話を隆国はどうとらえるか。摂関家に関わる事だ、喜んでふれ回るとは思えない。関白に何かあれば、自らの出世に大きくひびく。
「呪詛騒ぎに公卿が関わるとなれば、太政官が黙ってはおるまい。
何の常套手段だ、文句の一つも言いたかったが自制する。
「しかし、御主は天文生であろう。手に負える事なのか」
「負えぬ、と思う。故に
「御主とて、存外に有名人だが」
「悪目立ちしておるな、確かに。
「そこまでは言わぬ。それはそうと、相手の女房には会うた事があるのか、御主」
どうやら、太皇太后の
「一昨日、初めて会うた」
「どのような女だ」
「まあ、美しい御方ではある。だが、うすら寒い気を
「では、御主の家にも鬼があふれておると」声を更に落とす隆国は、幸親の袖を離す。
「心配するな、御主の家にも二十や三十はおる故に」離された袖を眺めて答える。
友人の顔を凝視した隆国は、にじるように少しばかり後ずさる。
人に悪さをする程に強者の鬼は、そうそうお目にかかれるものではない。土御門殿でも、寄ってくる気配を袖の下で指を組んで、何度も弾いた。大概は造作もなく、弾き飛ばされた。
左中将の屋敷でも、ふらふらと寄ってくる小物を弾いてみた。面白い事に左中将本人には寄り付こうとしない。やはり、あの
姫宮は
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