第9話 一条の屋敷にて

 陰陽寮おんようりょうは世代交代の時季にある。第一臈いちろう安倍吉平あべのよしひらは名目上、一線を退いた。陰陽博士おんようのはかせかみでもある惟宗文高これむねのふみたかも七十半ばを過ぎ、もはや引退したに近い。実務を務めるのは、これら上臈じょうろうの息子の世代だ。

 陰陽権博士おんようのごんのはかせ安倍時親あべのときちかは吉平の後継者として、名実ともに寮の責任を担う立場にある。次男の章親あきちか天文博士てんもんのはかせを仰せつかる。三男の奉親ともちか天文得業生てんもんとくぎょうしょう、四男の国時くにとき陰陽師おんようしの一人に名を連ねる。

 幸親にしてみれば、二人いる天文得業生の片割れが、一回り近くも年上の奉親である事が何ともやり難い。奉親にしても、幸親の得業生任命に、父親のみならず兄の章親までが推挙した事が面白くない。おかげで、元々微妙だった兄弟仲が、更に悪くなっていると噂に聞く。


 右京八条のだいにいとまを請い、その足で一条の安倍時親の屋敷に向かう。短い冬の日は既に暮れ切って、星も見え始めている。

 時親には陰陽生おんようしょうの息子が二人いる。幸親とは年が近いため、幼少の頃には遊び仲間だった。だが、寮に出仕するようになってからは、何とはなしに疎遠になった。

 曽祖父の代から陰陽、天文の第一人者として、寮の重要な地位を占める家の者、そんな自負を彼らは持っている。しかし、幸親の父は受領ずりょう、兄も出世街道を悠々と歩く。そして幸親自身は家に囚われたくないと、どこか無頼な態度を見せる。それが兄の有行ありゆきにはうらやましく。弟の国随くにありには面白くない。傍から見る者には、そのように映るらしい。

 二人の息子はさておき、時親には自慢にしている末娘がいる。吉平もこの孫娘をたいそう可愛がり、まるで入内じゅだいを予定した公卿の姫君のように、大切に育てたと一家で自負する。

 だが、一家の血が災いしたか、つけた乳母めのとの影響か、妙に学問好きな娘に育った。このままでは年頃になって、宮仕えをしたいなどと言い出すに違いない。危惧した両親は、婿を早々に決めてしまおうと、家長の吉平に相談した。

 吉平は早速、兄の吉昌よしまさの屋敷を尋ねた。

「我が家の自慢の孫娘に、兄上の自慢の孫をいただきたい」

 この時、幸親ゆきちかは十二歳、許婚いいなずけとなった融子ゆうこはわずかに六歳だった。下手に宮仕えなどさせて、どこぞの公卿の不良息子の妻の一人になるよりも、遥かに望ましい縁組だと、一家でもろ手を挙げて祝った。


 有行の勧める酒杯も程々にさせ、北の方は幸親を促して融子の部屋に案内する。

 初冠ういこうぶりよりも前に婚約を交わした青年が、二十歳という若さにもかかわらず、この家に足を向ける事が少な過ぎる。両親にしてみれば、不満やるかたない。幸親の周辺に別の女の影でもないか、息子たちに探らせてみたが、その類の色気は皆無に等しい。その事に返って不安を抱く日々が続いている。

 鴨居かもいに掛けられた御簾みず越しに中を窺う。明かりは小さいが、周囲の暗さで中の様子は何とか見える。どうやら融子は燈火の側で、何かを読みふけっているようだ。乳母の姿も見当たらず、どう声をかけたものかと思案する。ひさしに腰を下ろし低く咳払いをすると、微かに髪が揺れるがこちらには向かない。気付いていないようだ。

「融子」思い切って声をかけると、小さく短い笑いが返る。

 なるほど、そういう事か。幸親は思い切って御簾を持ち上げ、ままよと敷居をまたぐ。

 音に気付いた融子が驚きの表情を向けるが、構わずに燈火の脇に腰を下ろす。

「失礼な方、突然入って来られるなんて」

 驚きが親しい笑みに代わる。黒目勝ちの目に映る火の色に、幸親の心が微かに動く。この眼差しは安堵をくれる。

 あの女の何を映しているのか定かでない目とは正反対だ。太皇太后の許に群れる、取り澄ました女房らとも違う。あの者らの視線に晒されると、心が泡立つ気がする。集う男どもも同じだ。あの者らは何に取りつかれ、何に飢えているのか。

「何の物語を読んでいたのか」

 許婚の手から草紙をそっと取り上げる。

「幸親様は御読みになられたのでしょう」

 少しむくれてみせると、草紙を取り返す。

「俺はどうも、この貴宮あてみやという女が好きになれぬな。どこぞの殿上人でんじょうびと姫御ひめごらを見ているようだ」

 床に広げられた草紙の束に目を遣る。面白いと思ったのは、最初の辺りだけだ。女主人公の顛末が語られ始めた途端、どこかで聞いたような色恋沙汰にうんざりしてきた。

「私は貴宮のように、数多あまたの殿方から求婚されてみとうてよ」

 夢見がちな目が笑いかける。

「そのはずが、六つの時から、詰まらぬ男の許婚だ。現実はそのようなものだよ」烏帽子えぼしの上から頭を掻く素振りで言う。

「貴宮に求婚した殿方は、つまらない人ばかり。本当に素敵な方は、すぐ近くにおられた。兄君が親友として紹介した方でしたの」

「それなのに家のためと、意にそぐわぬ男に嫁し、手に入らぬ恋を思い煩うか」

「貴宮は仲忠なかただと一緒になれないの」

 小首をかしげて、幸親の顔を覗き込む。

「仲忠か。奇異な育ち方をした割には、結局、ありふれた鞘に収まったな。所詮は公卿の子だ、こやつも」

「貴宮も仲忠もかわいそう。でも、私はそうはならないから」

 男の方は大して可哀そうでもない。沿うた姫とは相思相愛で家族にも恵まれる。むしろ女と周辺の男の方が、可哀そうかもしれない。幸親は思い出しながらも溜息をつきたくなる。

「どこぞの大臣家の息子から求婚の文でも来たのか。それとも有行や国随の親友に、良い公達きんだちでもいたのか。琴の名手で、品行優れた美男、顔を知らぬ父親を待って、母者人ははじゃひとと山の奥の大きな木のうつほに住んでいたような」言葉が、つい、投げやりになる。

「どうして、意地悪ばかりをおっしゃるの。私の許婚は美男だわ」そっぽうを向いて、融子はすねるように言う。

 一応、褒められた幸親はまんざらでもない。苦笑交じりに融子の横顔を眺める。

「寮でも秀才だと言われているわ。右近衛うこんえの少将様や衛門佐えもんのすけ様みたいに立派な御友達も多くて、御家にも来られているのよ」

「なるほど、不良の溜り場か、俺の家は」

「関白家の御方も御存じでしょう」

「友人の不良公達と、優秀な兄のお陰だ」

龍笛りゅうてきが御上手だわ、何と言っても。御聞きになられた女君おんなぎみが、天女が舞う心地がしたと言われたとか。それなのに、私の許では滅多に聞かせて下さらない」

 どうにも、この類の誉め言葉は落ち着かない。胡坐あぐらをかきの直して、なおも苦笑する。

「天女は舞わぬな。舞うのは式神のたぐいだ。それで良ければ、いくらでも奏してみようか」

「そのようなものは、見とうありませぬ」

 融子は再び脇を向く。

「俺の家には、役にも立たぬ鬼ならばゴロゴロしておる。使えるやからは、祖父殿おおじ戻橋もどりばしの下に押し込めたきりだ。いずれ、そやつらを幾たりか起こさねばならぬやも知れぬ」

「噓、そのような事」

 長い髪を波立たせて振り向く融子を目が合う。おもむろに視線を外しながら、小さく首を振る。

 女部屋からほとんど出る事もない、世間知らずで素直な少女だ。幸親が公卿から私的な仕事を受けるなどとは、思ってもいないに違いない。

「幸親様が式神を使われるなんて。おじい様やお父様も使われた事がないのに」真剣な眼差しが間近で訴える。

 それは融子が知らないだけだ。眼差しから逃げるように、幸親は畳の上に身を横たえ、薄暗い天井の梁を見上げる。

 俺の部屋ならば、たいてい何かが見下ろしてくる。だが、ここには何もいない。どこの家にも、害のない鬼の類の一匹や二匹、珍しくはない。この屋敷でも、炊屋かしきやうまやには頻繁にうろついている。ところが、この奥の部屋では見た事がない。寄せ付けない者がいるためか。俺などはかえって寄せ集めてしまうたちだ。羨ましい。

「俺のじじ様は、若い頃に鬼を手懐けて連れ歩いたらしい。だが、大じじ様が身まかられた後、橋の下に押し込めてそれきりだ。俺が屋敷に来たからやも知れぬが。だから俺も、本当の式神、鬼神の輩は見た事がない」

「大おじい様や大伯父様は、そのような事をされたから、北の方に逃げられてしまわれたのよ」

「姫君がそのような言葉を使うものではないよ。それに俺の祖父おおじは先立たれたのだよ。俺は何も鬼神を起こして、東寺や比叡山の坊主どもに喧嘩を売りたい訳ではない」喧嘩の相手は呪師ずしだ。

 融子は小首をかしげて、幸親の顔を見下ろす。

「幸親様は大おじい様のようになられるおつもりなの」

「ならぬ。関白らのために働く気などない。ただの天文博士になれたら上出来だ。それがだめならば、どこかのすけじょうになって都落ちしようか」

 父が歩いて来た道だ、決して悪くもなかろう。顔の横で揺れる髪に目をやりながら投げやりに思う。

「寮のかみにでも、省の大夫だいぶにでも、幸親様ならばおなりになれるわ。でも、私の知らない人にはならないで」

 髪から視線を滑らせ、注がれる眼差しを見上げる。

「おじい様たちが、関白様や入道様の許で何をしておられるのか、私は知りとうなない、だから」

上達部かんだちめは陰陽師など当てにせぬ。むしろ天台や真言の坊主の方が羽振りが良い」

「お兄様たちも、行く行くは同じようになられるわ」

「坊主どもは、やる事が派手で立ち回りもうまい。何よりも公卿の身内が上位を占めておる」

「上の方から命じられれば、間違いと分かっている仕事もお受けになる」

 話が嚙み合わぬか。幸親はそっと息を継いで、融子の髪を手に取る。

「俺も有行らと変わる事はなかろう。それでも融子は、俺の妻で良いのか」

 大きな目が一度見開かれ、小さな頭が深くうなずく。

「……仕事が片付けば、毎晩でも御前の許に来よう。式神は決してこの部屋には連れて来ぬ。だから、俺を嫌わないでくれ」

「どうしてしまわれたの、いったい」不安そうに融子が微笑む。

「大じじ様も、大ばば様にこのようにして求婚されたやも知れぬぞ」笑い返した幸親は、両手を伸ばして融子の頭を引き寄せる。

 

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