第9話 一条の屋敷にて
幸親にしてみれば、二人いる天文得業生の片割れが、一回り近くも年上の奉親である事が何ともやり難い。奉親にしても、幸親の得業生任命に、父親のみならず兄の章親までが推挙した事が面白くない。おかげで、元々微妙だった兄弟仲が、更に悪くなっていると噂に聞く。
右京八条の
時親には
曽祖父の代から陰陽、天文の第一人者として、寮の重要な地位を占める家の者、そんな自負を彼らは持っている。しかし、幸親の父は
二人の息子はさておき、時親には自慢にしている末娘がいる。吉平もこの孫娘をたいそう可愛がり、まるで
だが、一家の血が災いしたか、つけた
吉平は早速、兄の
「我が家の自慢の孫娘に、兄上の自慢の孫をいただきたい」
この時、
有行の勧める酒杯も程々にさせ、北の方は幸親を促して融子の部屋に案内する。
「融子」思い切って声をかけると、小さく短い笑いが返る。
なるほど、そういう事か。幸親は思い切って御簾を持ち上げ、ままよと敷居をまたぐ。
音に気付いた融子が驚きの表情を向けるが、構わずに燈火の脇に腰を下ろす。
「失礼な方、突然入って来られるなんて」
驚きが親しい笑みに代わる。黒目勝ちの目に映る火の色に、幸親の心が微かに動く。この眼差しは安堵をくれる。
あの女の何を映しているのか定かでない目とは正反対だ。太皇太后の許に群れる、取り澄ました女房らとも違う。あの者らの視線に晒されると、心が泡立つ気がする。集う男どもも同じだ。あの者らは何に取りつかれ、何に飢えているのか。
「何の物語を読んでいたのか」
許婚の手から草紙をそっと取り上げる。
「幸親様は御読みになられたのでしょう」
少しむくれてみせると、草紙を取り返す。
「俺はどうも、この
床に広げられた草紙の束に目を遣る。面白いと思ったのは、最初の辺りだけだ。女主人公の顛末が語られ始めた途端、どこかで聞いたような色恋沙汰にうんざりしてきた。
「私は貴宮のように、
夢見がちな目が笑いかける。
「そのはずが、六つの時から、詰まらぬ男の許婚だ。現実はそのようなものだよ」
「貴宮に求婚した殿方は、つまらない人ばかり。本当に素敵な方は、すぐ近くにおられた。兄君が親友として紹介した方でしたの」
「それなのに家のためと、意にそぐわぬ男に嫁し、手に入らぬ恋を思い煩うか」
「貴宮は
小首をかしげて、幸親の顔を覗き込む。
「仲忠か。奇異な育ち方をした割には、結局、ありふれた鞘に収まったな。所詮は公卿の子だ、こやつも」
「貴宮も仲忠もかわいそう。でも、私はそうはならないから」
男の方は大して可哀そうでもない。沿うた姫とは相思相愛で家族にも恵まれる。むしろ女と周辺の男の方が、可哀そうかもしれない。幸親は思い出しながらも溜息をつきたくなる。
「どこぞの大臣家の息子から求婚の文でも来たのか。それとも有行や国随の親友に、良い
「どうして、意地悪ばかりをおっしゃるの。私の許婚は美男だわ」そっぽうを向いて、融子はすねるように言う。
一応、褒められた幸親はまんざらでもない。苦笑交じりに融子の横顔を眺める。
「寮でも秀才だと言われているわ。
「なるほど、不良の溜り場か、俺の家は」
「関白家の御方も御存じでしょう」
「友人の不良公達と、優秀な兄のお陰だ」
「
どうにも、この類の誉め言葉は落ち着かない。
「天女は舞わぬな。舞うのは式神の
「そのようなものは、見とうありませぬ」
融子は再び脇を向く。
「俺の家には、役にも立たぬ鬼ならばゴロゴロしておる。使える
「噓、そのような事」
長い髪を波立たせて振り向く融子を目が合う。おもむろに視線を外しながら、小さく首を振る。
女部屋からほとんど出る事もない、世間知らずで素直な少女だ。幸親が公卿から私的な仕事を受けるなどとは、思ってもいないに違いない。
「幸親様が式神を使われるなんて。おじい様やお父様も使われた事がないのに」真剣な眼差しが間近で訴える。
それは融子が知らないだけだ。眼差しから逃げるように、幸親は畳の上に身を横たえ、薄暗い天井の梁を見上げる。
俺の部屋ならば、たいてい何かが見下ろしてくる。だが、ここには何もいない。どこの家にも、害のない鬼の類の一匹や二匹、珍しくはない。この屋敷でも、
「俺のじじ様は、若い頃に鬼を手懐けて連れ歩いたらしい。だが、大じじ様が身まかられた後、橋の下に押し込めてそれきりだ。俺が屋敷に来たからやも知れぬが。だから俺も、本当の式神、鬼神の輩は見た事がない」
「大おじい様や大伯父様は、そのような事をされたから、北の方に逃げられてしまわれたのよ」
「姫君がそのような言葉を使うものではないよ。それに俺の
融子は小首をかしげて、幸親の顔を見下ろす。
「幸親様は大おじい様のようになられるおつもりなの」
「ならぬ。関白らのために働く気などない。ただの天文博士になれたら上出来だ。それがだめならば、どこかの
父が歩いて来た道だ、決して悪くもなかろう。顔の横で揺れる髪に目をやりながら投げやりに思う。
「寮の
髪から視線を滑らせ、注がれる眼差しを見上げる。
「おじい様たちが、関白様や入道様の許で何をしておられるのか、私は知りとうなない、だから」
「
「お兄様たちも、行く行くは同じようになられるわ」
「坊主どもは、やる事が派手で立ち回りもうまい。何よりも公卿の身内が上位を占めておる」
「上の方から命じられれば、間違いと分かっている仕事もお受けになる」
話が嚙み合わぬか。幸親はそっと息を継いで、融子の髪を手に取る。
「俺も有行らと変わる事はなかろう。それでも融子は、俺の妻で良いのか」
大きな目が一度見開かれ、小さな頭が深くうなずく。
「……仕事が片付けば、毎晩でも御前の許に来よう。式神は決してこの部屋には連れて来ぬ。だから、俺を嫌わないでくれ」
「どうしてしまわれたの、いったい」不安そうに融子が微笑む。
「大じじ様も、大ばば様にこのようにして求婚されたやも知れぬぞ」笑い返した幸親は、両手を伸ばして融子の頭を引き寄せる。
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