第8話 右京八条第にて
この者の父親は、先ごろまでどこか
家は裕福で、年はまだ二十歳だというのに、どうしてこうも飾り気も洒落っ気もない服装をしているのか。
「権大納言様より伺いました。悪い夢に悩まされておられると」
挨拶もそこそこに単刀直入に切り出す。衛府か検非違使庁の下級役人のようだ。
「夢に煩わしい者が現れては、恨み言ばかりを言う。それ以上の事はないのだが、おかげで、ゆるりと眠れぬのに往生しておる」
「然様にございますか。その程度ならば、応急に対処もできましょう」
「そうか。では、早急に頼む。して、
「家の醜聞を人の耳に入れとうはないと」
端正な顔に不愛想な表情を張り付けて幸親は答える。
「醜聞か」思わず笑う。本当に愛想のない答えだ。
「とある女房に、忘れえぬ御方の面影を見られた、そのような噂は最初の内だけでしょう。よう御存じでしょうが、人の噂は大抵、醜い方へと流れるものです」
随分と辛辣な事を言ってくれる。人の世のしがらみなど、それこそ、この若者よりも遥かに身に染みている。
その幸親の合わせた袖の下で、何かを探るように手が動く。真言の僧侶のように、印でも結んでいるのか。少し興味を引く。
「
「太皇太后様の
自らは
大方、自らが噂の対象になっている事など知るまい。幸親の無表情を眺めて道雅は思う。
「御身様もやはり、権大納言と共に土御門殿に行かれ、その御方に御会いしたと伺いました」
「ああ。それでのうても、土御門殿には
「御話し下されますか、次第と詳細を」
「頼宗と太皇太后の機嫌伺に行ったのは、もう一年も前になるか。周子の様子を見に行くついでのような、軽い気持ちだった」
脇息から身を起こし、視線を正面の男から少し外して語り始める。
「
「當子内親王様と凱子様は、似ておいでになられるのですか」無粋な口調で幸親が問う。再び、膝の上に置かれた袖の下で指が動く。
「頼宗に肩を叩かれて見直せば、さして似てはおらぬか。されども
そして凱子の許に通い始めた。當子内親王と道雅の関係は、同僚の女房らに聞いて知っていたようだ。最初こそ、その事には触れないように気遣っている様子に見えた。
ところがある日、凱子が突然に言う。
「御見様の
何の事かと尋ねたが、笑って答えない。その辺りから、少しずつ気味が悪くなり始めた。そして次第に足も遠ざかる。恨みがましい文が何度か届いた。
周子や他の女房から悪い噂も聞く。何人もの公達が、凱子様の
「御身にも、そのような何かが見えるのか」悪意もなく、興味本位で聞く。
「相手が強う顕示してくれば、見える事もありましょう」相変わらず表情を変えずに答えが返る。
「それらを除くなり遠ざけるなりの方法はあるのか」
「鬼の
「御身は何をしようとしている」
「さて、まだ詳しい状況が分かりませぬ。まずは、敵情視察でも致しますか」
ようやく動いた目元に、意味深長な笑みが浮かぶ。仕事の事となると、妙に凄みのある表情をするのだな。道雅は一回り以上も年下の男に、ばかり気後れする。
「凱子様は、昨日より気鬱の病とかで、宿下がりをしておられると、権大納言様に伺いました」
「そうか。どちらに下がっておられる」
「
言葉の割には、どこか気鬱そうな表情が戻ってくる。先程の不審な指の動きは、方向でも探っていたという事か。何れにせよ、何を考えているのか分からない。
「三条の屋敷か。以前に一度訪ねた事がある。あまり気の利く使用人が、おらなんだように思うたが」
「然様ですか。ともあれ、こちらの御屋敷の周囲に結界でも張る事と致しましょう」
「御身にそのような事ができるのか」
「何のために、私を御雇い入れになられたのですか。されども一時しのぎの付け焼刃、今宵一晩程度が限度でしょう。明晩には、また何ぞ致します」
背を伸ばし、落ち着き払った口調と表情が戻ってくる。事を起こすとなると、途端に自信に満ちてくるようだ。この男も、いずれは祖父らにも匹敵する陰陽師になるのかもしれない。関白が気に入った理由も、この辺りにあるのだろう。
「では、
「そのような物で、今宵一晩は悪い夢に煩わされぬのか」
「そのはずです」
幸親は軽い動作で円座から立ち上がる。袖がわずかに翻ると
「あの女が言うたように、人には誰か、
座に戻ってきた幸親に問う。
「大抵の場合」
「御身にも、誰かいるのか」
「さて、自らの事はよう分かりませぬ」少し言い難そうに答える。
「私には如何か」
「御身様を守護されている御方は御強い、それ以上に御美しい。仁和寺の四の宮様も言うておられましたから、間違いありませぬ。今現在、夢見以外に障りがないのも、その御方がおいでになる故と存じます」
笑った幸親の顔は妙に幼く見えた。
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