第8話 右京八条第にて

 この者の父親は、先ごろまでどこか上国じょうこくかみではなかったのか。円座わろうだに座り背筋を伸ばす安倍幸親あべのゆきちかを見て、藤原道雅ふじわらのみちまさは思う。

 家は裕福で、年はまだ二十歳だというのに、どうしてこうも飾り気も洒落っ気もない服装をしているのか。木賊襲とくさがさねの狩衣かりぎぬなど、地方から出て来た滝口たきぐち検非違使けびいしでも見ているようだ。それに高陽院かやのいんの宴の時よろしく、有り触れない品の良いこうを焚いている。何ともちぐはくで奇矯な趣味の持ち主だ。

「権大納言様より伺いました。悪い夢に悩まされておられると」

 挨拶もそこそこに単刀直入に切り出す。衛府か検非違使庁の下級役人のようだ。陰陽師おんようしなどという輩は、持って回った言い方が常と思っていた。だが、この者は違う。初対面から、人に恨みを買っておらぬかと問いかけた。依頼を断りたい時には、何やら言葉を濁していたが、それでも滅多に見ない面白い男だ。どうやら道雅は、この若い陰陽師候補が気に入りつつある。

「夢に煩わしい者が現れては、恨み言ばかりを言う。それ以上の事はないのだが、おかげで、ゆるりと眠れぬのに往生しておる」脇息きょうそくに片肘を預けて、道雅は言う。

「然様にございますか。その程度ならば、応急に対処もできましょう」

「そうか。では、早急に頼む。して、頼宗よりむねは他に何か言うていたか」

「家の醜聞を人の耳に入れとうはないと」

 端正な顔に不愛想な表情を張り付けて幸親は答える。

「醜聞か」思わず笑う。本当に愛想のない答えだ。

「とある女房に、忘れえぬ御方の面影を見られた、そのような噂は最初の内だけでしょう。よう御存じでしょうが、人の噂は大抵、醜い方へと流れるものです」

 随分と辛辣な事を言ってくれる。人の世のしがらみなど、それこそ、この若者よりも遥かに身に染みている。

 その幸親の合わせた袖の下で、何かを探るように手が動く。真言の僧侶のように、印でも結んでいるのか。少し興味を引く。

御身おみは、凱子ときこに会うたのか」

「太皇太后様の土御門殿つちみかどどのには、権大納言さまがお連れ下さいました故」

 自らは天文生てんもんしょうだと言い張るが、安倍の名を聞けば女房衆ですら、陰陽寮おんようりょうを思い出すだろう。もっとも、内外の噂に飢えている女君らには、頼宗が連れて来た、若く姿の良い男というだけで興味の対象となる。今頃、土御門殿では、若い陰陽師が誰かを尋ねて来た、その相手と理由を詮索するのに躍起になっているかもしれない。

 大方、自らが噂の対象になっている事など知るまい。幸親の無表情を眺めて道雅は思う。内裏だいり里内裏さとだいりの女たちと交わる事も、殆なかっただろう。それはそれで羨ましいかもしれない。

「御身様もやはり、権大納言と共に土御門殿に行かれ、その御方に御会いしたと伺いました」

「ああ。それでのうても、土御門殿には同母妹いもうと周子ちかこがおる。その後も幾度か訪うた」

「御話し下されますか、次第と詳細を」

「頼宗と太皇太后の機嫌伺に行ったのは、もう一年も前になるか。周子の様子を見に行くついでのような、軽い気持ちだった」

 脇息から身を起こし、視線を正面の男から少し外して語り始める。

御簾みすの内より覗き見て笑う者、堂々と姿を現して扇越しに見る者、特に珍しゅうもない光景だ。着飾り取り澄ます女房ら、そこに交じりて當子とうこが笑うていた」

「當子内親王様と凱子様は、似ておいでになられるのですか」無粋な口調で幸親が問う。再び、膝の上に置かれた袖の下で指が動く。

「頼宗に肩を叩かれて見直せば、さして似てはおらぬか。されども花山かざんと三条の兄弟の院の姫同士、どこか似た面差しは否めぬ。周子に聞けば、先ごろ仕え始めたばかりの女房だという」

 そして凱子の許に通い始めた。當子内親王と道雅の関係は、同僚の女房らに聞いて知っていたようだ。最初こそ、その事には触れないように気遣っている様子に見えた。

 ところがある日、凱子が突然に言う。

「御見様のかたわらに、本当の私が見えます」

 何の事かと尋ねたが、笑って答えない。その辺りから、少しずつ気味が悪くなり始めた。そして次第に足も遠ざかる。恨みがましい文が何度か届いた。

 周子や他の女房から悪い噂も聞く。何人もの公達が、凱子様のつぼねに入って行くのを見ている。その内には上達部かんだちめもおられる。その者たちが密かに囁く。あの女房には、何か人に見えぬものが見えているのではないか。ある者は、連れて来たわらわを外に出してくれと言われた。また別の者は、御簾の向こうから見ておられるのは、御母堂ごぼどうかと問われた云々、いずれも覚えのない事や有り得ない事だという。

「御身にも、そのような何かが見えるのか」悪意もなく、興味本位で聞く。

「相手が強う顕示してくれば、見える事もありましょう」相変わらず表情を変えずに答えが返る。

「それらを除くなり遠ざけるなりの方法はあるのか」

「鬼の夜行やこうを避けたよう、幾つか方法はあります」

「御身は何をしようとしている」

「さて、まだ詳しい状況が分かりませぬ。まずは、敵情視察でも致しますか」

 ようやく動いた目元に、意味深長な笑みが浮かぶ。仕事の事となると、妙に凄みのある表情をするのだな。道雅は一回り以上も年下の男に、ばかり気後れする。

「凱子様は、昨日より気鬱の病とかで、宿下がりをしておられると、権大納言様に伺いました」

「そうか。どちらに下がっておられる」

三条西洞院さんじょうにしのとういん義姉君あねぎみが住んでおられ、暫くはそちらにいるとか。太皇太后様の宮よりも、事は成しやすいでしょう。こことの方向を考えても」

 言葉の割には、どこか気鬱そうな表情が戻ってくる。先程の不審な指の動きは、方向でも探っていたという事か。何れにせよ、何を考えているのか分からない。

「三条の屋敷か。以前に一度訪ねた事がある。あまり気の利く使用人が、おらなんだように思うたが」

「然様ですか。ともあれ、こちらの御屋敷の周囲に結界でも張る事と致しましょう」

「御身にそのような事ができるのか」

「何のために、私を御雇い入れになられたのですか。されども一時しのぎの付け焼刃、今宵一晩程度が限度でしょう。明晩には、また何ぞ致します」

 背を伸ばし、落ち着き払った口調と表情が戻ってくる。事を起こすとなると、途端に自信に満ちてくるようだ。この男も、いずれは祖父らにも匹敵する陰陽師になるのかもしれない。関白が気に入った理由も、この辺りにあるのだろう。

「では、土器かわらけを何枚か拝借いたします。使い古しで構いませぬ」

「そのような物で、今宵一晩は悪い夢に煩わされぬのか」

「そのはずです」

 幸親は軽い動作で円座から立ち上がる。袖がわずかに翻ると菊花きくかの香が漂う。その香りを残したまま、半蔀はじとみの際まで行く。そして外に向けて従者の名を呼び、炊屋かしきやから土器をもらってきてくれと命じる。

「あの女が言うたように、人には誰か、うなった者が憑いているものなのか」

 座に戻ってきた幸親に問う。

「大抵の場合」

「御身にも、誰かいるのか」

「さて、自らの事はよう分かりませぬ」少し言い難そうに答える。

「私には如何か」

「御身様を守護されている御方は御強い、それ以上に御美しい。仁和寺の四の宮様も言うておられましたから、間違いありませぬ。今現在、夢見以外に障りがないのも、その御方がおいでになる故と存じます」

 笑った幸親の顔は妙に幼く見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る