第6話 権大納言の車の内にて

 酔いつぶれた隆国たかくに頭中将とうのちゅうじょうの車に叩き込むのを手伝い、幸親は漸くに一息つく。酔い覚ましに歩いて帰るのも悪くない。

「夜更けの往来は物騒だ。御身おみの家は土御門西洞院つちみかどにしのとういんだったね、送ってゆく故、遠慮せずに乗りなさい」

 権大納言が何故か上機嫌で声をかけてくる。牛車を引き出してきた従者らは怪訝な面持ちで、主の顔と幸親を見比べる。

 酔って気が大きくなっているらしい幸親は、つい言葉に甘える事とする。従者らの目が白い。この地下じげ者の若造のために、遠回りさせられるのか。迷惑至極だと、無言の眼差しが突き刺さる。


 正二位権大納言と春宮大夫とうぐうだいぶを兼任する、藤原頼宗ふじわらのよりむね御堂関白家みどうかんぱくけの次男だが、関白の頼通よりみちとは母親が違う。そのため異母兄弟よりも、出世がやや遅れ気味と言われているが、幸親にしてみれば、どこまで行っても雲の上の御方だ。

「御身は、道雅みちまさと親交があるそうだね」

 車が進み始めると、砕けた言葉遣いで権大納言が言う。この人の北の方は、その道雅の妹だ。偶然などではない、明らかに誰かに仕組まれている。酔いの醒めていない頭で思う。

「親交などとは恐れ多い、幾度か御声をかけて頂いたに過ぎませぬ」

 狭い車の内には、酒臭い息を消すように、頼宗の衣香えこうが満ちる。少し癖のある黒方くろぼうらしき香りが、神経を刺激して酔いが醒めてくる。

「いやいや、あれの力になってくれているようだね」

「私の力など及ばぬに等しい事です。誰ぞ、有能な者を紹介する御役には立てると思うております」

「何を謙遜されるか」懐から扇を取り出しながらも笑う。

 目立たない振りをするが、権大納言も例にもれぬ食わせ者だ。兄の昌親まさちかが言う。よく分からないが、この人は年の近い昌親を勝手に友人と見ているらしい。御堂家の内で頼宗にもう少し発言権があれば、昌親は春宮坊とうぐうぼうすけくらいには抜擢されるかもしれない、異例ながら五位蔵人ごいのくらうどにもなれるかもしれない。などと勝手な噂が囁かれるが、兄は意にも介さない振りを続ける。案外それが、上達部かんだちめには良い心象を与えてもいる。

「兄上様が心配だと、しつも心を痛めている。私も見ているのが辛いのだよ」

 口元を扇で隠して言う表情は、さほど辛そうには見えない。この人が左中将の妹を正室にした経緯は知らない。自らが追い落とした者の娘を息子の妻に入れた、御堂様もむごいお人だ、揶揄する声も聴く。一方では、父親や異母兄弟への当てつけに、頼宗自身が伊周これちかの娘を迎えたと囁く声もする。昌親は後者だったか。

「一刻も早うに、道雅の夢に毎夜現れるとかいう女を、取り除いてはくれまいか」

 この言葉で、一気に酔いが醒める。

「夢に……生霊いきすだまにございますか」

「おや、知らないのかね」扇の陰で権大納言は笑う。

 本当に内室の兄を心配しているのか。いずれにしても、初めて聞いた事だ。

「先だっての高陽院かやのいんでの宴で、あれに忠告しておいでではないのか。それが当たっていると言うていた。鬼の夜行やこうの事も、御身に話したのであろう」

 俺一人ならばどうでも良いが、陰陽寮おんようりょうの面目を潰したいのか、この公卿くぎょうどもは。内心で叫びたい気分で幸親は目を伏せる。生霊に悩まされると先の陰陽頭おんようのかみの孫に相談した、しかしその者は、何の手立ても打てない。こんな噂が立てば、祖父の面目も丸潰れになりかねない。それこそ化けて出るのは、女の生霊などではない。下手な鬼よりも恐ろしい祖父だ。

「鬼の夜行と言われますが、私の伺うた様子では目くらましに過ぎませぬ。あのようなもので、人を殺めはできますまい。しかし、脅しには充分になる。心の弱い者ならば、病みつくやもしれませぬが」

 目を上げて言えば、頼宗は恐れるふりを扇越しにする。いちいち癇に障る。この雅な男どもがつくづく苦手だ。

「目くらましとは、誰ぞ呪術ずずつ者でもおると」

「あり得ることです、生霊の女との関りは知れませぬが」

 祖父や曽祖父は式神しきがみを使ったという。しかし祖父は、人に見えるような鬼は目くらましに過ぎないとも言った。

 呪師ずしの使う鬼を見る事のできる者は限られる。常人に姿をあえて見せたり、気配を感じさせたりするのは、相手に恐怖心を抱かせる手段の一つだ。死霊や生霊の類も同じだ。恐怖を植え付けられた者は、勝手に自らを追い込み自滅する。それがの呪師のやり方だ。本当に鬼を使おうと思うならば、人が人でいるための一線を越える事になる。犠牲にする事も少なくない、良い事とは思えない。生前に祖父はたびたび繰り返していた。

「その女の正体を左中将さちゅうじょう様は御存じなのですね」鎌をかけるように幸親は聞く。

「御身は聞いておられないのか」言いにくそうな問いが返る。

「太皇太后様の女房の事ならば多少とも」

「そうか、凱子ときこ様か」ため息交じりに言う。

「よもや、その御方は、噂に囁かれる皇女にございますか」覚悟を決め声を落として幸親は問う。

「やはり存じておられるか」扇の陰で答える。

「関白様もその御方に通われていると言われていました」

「関白のみではない。他にも名を出せぬ相手が何人かおるようだ」

「しかし、左中将様が身を引かれたいと思われた訳は、その事のみではありますまい」

「わかっているのなら話は早い。あの女性は父院の血を引いておられるのだろう、恐ろしゅう感が強い。何かが憑いておるのか、元々、常人と生まれが違うのか。並の者には扱い難い。関白が手を引きたいと言うも、その辺りにあろうな」

 関白の立場から言えば、長姉である太皇太后に仕える女房に手を出したに過ぎない。権大納言にしても、兄弟、従兄弟の内でのもめ事と思っていたかもしれない。問題は、取るに足りないと思っていた女房が、その程度の相手ではなかった事だ。

「幸いにして女は道雅に執心している。関白の名が立つ前に、女を何とかしたい。我が家に関わる醜聞として、人の耳に入れとうはない。御身とて公家の端くれ、分かるであろう」

 その端くれに何を頼むのか。命令する方が、この男には楽だろうに、次第に腹が立ってくる。

御見様おみさまは手を汚す者を御所望なのですか」

「滅多な物言いをするではないよ。先の陰陽頭の身内を怒らせるような、恐ろしい事をしたい訳ではない」

 頼宗が大げさに袖を振ると、黒方の香が更に立つ。

「我が家など、御見様方の恐れる対象ではありますまい。指を上げて命じるだけで動く者です」

「なるほど、祖父おおじ殿らと同じ物言いをするのだね、若いながらも。昌親も時々、同じような事を言う。だが、御身は安倍吉昌あべのよしまさのただ一人の後継ぎ、かの晴明はるあきらの直系、生まれ変わりと信じる者もおる。怒らせるような事はしとうない」

 顔も知らない曽祖父の名など出してくれるな、噂など信じてはいない。次第に怒りすら虚しくなる。

「御見様方に打つ手立てはございますか」

「御身の言う通り、人を遣りて口を封ず程度であろうな」

 苦笑交じりの答えからは、いかにも人の命の遣り取りに慣れている様が窺える。

「では、その様になさって下され」

「何とも釣れないことを言うてくれる。時に御身、隆範りゅうはんという法師を御存じかな」

「名前くらいは存じております。播磨より来た法術に長けた法師だとか。この一年二年の間に、都でも名が知れるようになりましたので」

「信じるに足る噂のようだ。凱子ときこ様が雇い入れたほど故に」

 その坊主が目くらましの鬼の夜行を見せた張本人か。

「人を遣るにも、その者が厄介と言われますのか」

 呪師には呪師をとでも言いたいのだろう。為政者らが欲しいのは、うらを立てるだけの者ではない。

「飲み込みが早いうて嬉しい事よな。関白に頼むまでもない、姉上の許には私が御連れ申そう。凱子様の顔となり声となり、とくと拝見するがよかろう」

 扇の陰から忍び笑う目元がのぞく。関白や左中将の笑みにもよく似ている。

「御心遣い、痛み入ります」

 遠くに龍笛りゅうてきを聞いたように思えた。凍るような盤渉調ばんしきちょうの音だ。

「御身が素直でいてくれるなら、御父上や兄上にも得となる。関白もそのように取り計ろうて下さろう」

 笛を奏すのは公卿たちか。俺はそれに従い、蘇莫者そまくしゃを舞う。哀れと思え鬼どもよ。

 それにしても腹の立つのは左中将だ。一度締めあげて、洗いざらい事情を吐かせてやろうか。俺はまだ、酔っぱらっているようだな。幸親は車の揺れに身を任せて瞑目する。

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