第4話 土御門西洞院にて

 土御門大路つちみかどおおじよりは北、西洞院にしのとういん大路よりは東に屋敷はある。曽祖父の代からの六戸主ろくへぬしに及ぶ宅地は、幸親ゆきちかが一人で暮らすには広すぎる。広くとった庭の西南には池が穿たれ、畔には古びた風情の柳の木が立つ。既に葉を落とした細い枝が風に揺れるさまが、痛々しく映るほど庭は殺風景だ。

 夕暮れ時に屋敷に帰り、堅苦しい衣冠いかんを脱ぎ捨て、薄縹うすはなだ水干すいかんに着替える。庭に下り立ち池の傍まで来ると、軽く周囲を見回す。夏場であれば、手入れの行き届かない池の周辺に、小さな蛙がいくらでも見られた。師走に入った今となっては、枯葉の他に動く物もない。

 ふと首を巡らせた時、すぐ右手の草むらで動く影が目の端に映る。何かを確認しないまま目を向け、針のように細く絞った気を放つ。このようにして小動物を捕らえるのは、垂れ髪にしていた頃から得意だった。祖父は幼い孫に、遊びがてらに手ほどきをしてくれた。

「野鼠か」低く呟やくと、腰をかがめて二寸ばかりの小さな生き物を摘まみ上げる。

 殺してはいない。蛙よりもこちらの方が良いだろうと柳の木に向く。

常世とこよ、まだ起きているか」節くれだった幹に声をかける。

 一抱えには少し足りない古木には、ちょうど幸親の腰の辺りの高さにうろがある。その奥で乾いた物音がすると、細長い影がおもむろに現れる。

其方そちもそろそろ眠る頃か」

 差し伸べたたなころに、真っ白な蛇は猫のように鎌首を擦り付ける。

「これでも食せ」

 掌の上に先程の鼠を乗せる。三尺ばかりの細い白蛇は、赤い舌を見せて鼠に触れる。瞼のない赤い目が確かめるように幸親を見る。そして細かい歯の生えた口を大きく開くと、小さな鼠に食らいついてゆっくりと飲み込み始める。

「常世よ、其方は祖父おおじ殿を憶えておるか」

 細長い蛇の体の内を塊となった鼠が動いて行く。

「祖父殿は呪詛ずそなど引き受けた事があるのだろうか。左中将の依頼は、俺に呪詛をしろと言うているようなものだ。女が貴布禰きぶねの社に願をかけた。願を無効にしろと言うのなら、何とかしよう。だが、あの男は呪詛を返せと言う。女が望んだ事が、その身に起これば良いと。除きたいのは呪詛ではない、女そのものだ」

 物心ついた頃、幸親は陰陽頭おんようのかみの祖父の屋敷にいた。それまで暮らしていた賀茂かもの家で、母方の曽祖父の賀茂光栄かものみつよしが、小さな曾孫の凡庸ではない資質に気付いた。三人の息子の誰一人として、家業を継がなかった安倍吉昌あべのよしまさにとって、どれだけ喜ばしい事であったのか。中国の天文志、五行大義といった書物を読み聞かせ、式盤ちょくばんなどを玩具代わりに与えられたが、祖父はそれらを強要もしなかった。

 知識も必要だが自らの感を磨け、そんな祖父の教え方が俺は好きだった。骨法などは誰でも学ぶ事ができる。自らに見えるモノが他者には見えぬ事を知れ。見える事で何ができるのか、それを考えよ。人と違う事を誇りこそすれ、決して卑下してはならない。多分、それらの教えに関しては、自慢の孫になれたのかもしれない。

「左中将のために働くなど、祖父殿が生きておられたら、許してはくれまいな」蛇に向いて一人語つ。

 日は既に没し、庭も薄暗くなってきた。これから寒くなろうというのに、常世は洞の上で二股に分かれた大きな枝の上に横たわる。

「俺も殿上人でんじょうびと公卿くぎょうになど関わらず、目立たずに過ごすべきなのだろうな。まあ、隆国たかくにらは別だが」

 あまりに高名だった曽祖父、関白家の信任も篤い大叔父に比べれば、祖父は控えめな人だった。

——兄上はいつも、自らを隠そうとする――酒が入ると大叔父の吉平よしひらが、吉昌に愚痴を言った。

 昔語りの中での曽祖父や大叔父の業績のいくつかは、祖父が行った事だった。手柄をわざわざ人にくれてやる事も、共に成しえた仕事から名を消す事も、褒賞の場に現れない事も度々あったという。摂津の荘園からの上りと陰陽頭の俸禄で、生活に困る事はない。私的に頼まれた大それた仕事は、極力避けていた。だが、吉平らが受けた仕事が手に余れば、手を貸すことも多かった。条件は自らの名を出すな、これも保身の一つだ。そう言って祖父はいつも笑った。

「のう、常世、くだんの女房とやらに一度会うてみるべきかな。太皇太后さまの元におられるそうだ。隆国から関白様に頼うでもらえば、造作ないだろう」

 枝の上の常世が赤い舌を見せて、微かにうなずいたように見えた。

「良うない心当たりがある、その女房について」呟く幸親は、細く溜息をつく。

 ここ最近、気が付けば溜息をついている。苦笑してまた溜息が漏れる。

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