第2話 土御門西洞院にて
曽祖父は二人の息子に、それぞれ
この家で異色なのは俺だけか、本末転倒な劣等感だと二十歳になった幸親は思う。
「確かに
来客の喉の辺りを眺めながら幸親は語る。
「されど、父や叔父、兄は家の仕事が合わぬと、後を継ぎは致しませんでした。祖父にとって唯一の後継ぎが私になります。しかし見ての通り、取るに足らぬ若輩者に過ぎませぬ」
この日の夕刻、幸親が一人で暮らす家にやって来たのは、左中将の
「
左中将は三十四歳、
常より
「
そのような買い被りも迷惑至極、得業生の任命も祖父らの七光りだと、寮の内では陰口を言われている。
「噂など無責任で勝手なものです。私などを大叔父と比べるのも片腹痛い。一条の家でも笑い話にされていましょう」
先の陰陽博士とは、寮の一臈である
「わざわざ我に忠告をしたのは御身であろう。そこまでして、あれは無かった事とでも言うのか」道雅は
こういう嫌味なほどの貴人は、本当に苦手だ。幸親は内心で毒づく。この男に忠告などしたのは、明らかに酒の上での失態だ。あの時は、背を向けた男の傍らに禍々しい気配を感じた。刹那、女の長い髪が見えたように思う。何者かは分からないが、男に対して良い思いを抱いてはいない。
しかし、今、傍らにいる気配も女ではないのか。こちらの印象はまるで逆だ。
「私の手には余る事です」溜息を飲み込んで言う。
左中将に付きまとう噂は、とかく物騒だ。夜の往来で夜盗を切り殺したの、屋敷に押し入った盗賊を射殺したの、挙句は盗賊と間違えて
ところが、関白の屋敷で出会った左中将は、まるで別人だった。誰が、この典雅な貴公子に、そのような悪評を上塗りしたのか、悪意以外の何物でもない。要するに、未だ敵の多い御仁なのだろう。そして敵の多い御仁は、よりによって家まで訪ねて来た挙句、忠告された事に心当たりがあると言い出す。
「私の所に来られたとは、よもや、心当たり以上の事があったのでございますか」少しばかり嫌な予感がする。
「鬼に
「いつの事にございましょう」つい、
「昨夜、屋敷に戻る時だ。既に夜半は過ぎていたか」
「場所はどちらになりましょう」
「堀川大路を下り、二条に差し掛かる辺りだったか」
夜半に二条とは、随分に時と場所を選んでくれたものだ。幸親は内心で苦笑する。往古より鬼に出会うは
左中将は言う。車の内でウトウトしていた時、多くの
かつて曽祖父の東三条の
御簾の隙間から揺れる火影が見える。
外に声をかけると、車の下から這い出す従者が答える。何か見たかと問うが、誰もが恐ろしさに目を閉じて震えていたと言う。ただ、車の下に潜り込む前に、はっきりと形の分からない影と明かりが迫っていた。耳を塞いでも聞こえる怒声と共に通り過ぎて行ったが、それらは突然に消えた。何があったのか、本当に分からない。
「鬼の
「さて、実際に
「ああ。
「
「そのようなものが、本当に護符になるのか」
「信じればこその守りです。信じぬ者にはなりますまい。御子息の
噂に聞く左中将は、先妻との間に生まれたただ一人の男子を仏門に入れ、
「御身は鬼を見た事はないのか」
「見えぬものを鬼と言いましょう。されど御見様は、そのような鬼よりも更に恐ろしい者を存じ上げておられましょう」
「
「高位の方々に限る事では在りますまい。暗き心に鬼は生ずる」
「そうよな、我はそれを御身に相談しとうて来たのだよ」
「では、一条の家に文をしたためます。陰陽
「いや、
今度こそ、幸親は大きく息を吐く。祖父はどのように依頼を断っていただろう。物心ついた頃から、祖父に連れられて色々な家を訪れた。奇妙な事があったから占って欲しい。要件は、そのような
左中将は表情を抑えた目で幸親を見る。肩先から上る微かな気は焦燥の色を示す。幸親が視線をまっすぐに向けると、逃げるように視線を膝に落とし、焦燥の色を消して口を開く。
「御身は恋をした事はないか」
緊張していた幸親の心の糸が微かに緩む。
「我には、今も忘れえぬ御方がおられる。訪なうた時、あの御方はいつも琴を弾いてくれた。白い指が
「その御方は」好奇心が頭をもたげると、緩んだ糸を弾く。
「
目を細めて笑いはするが、立ち上る気からは怒りの色が滲む。
「恨みを抱く相手が、お判りになられたのですね」
「ああ。関白の姉君、太皇太后様に仕える
かくして色恋沙汰の修羅だ。幸親にしてみれば苦手この上ない。まだ出世争いで相手を蹴落としたがる輩の方がましだ。
「厄介な事にございますな、関白様が絡まれるとは」
道雅の傍らの気配も女だが、話に出た女房との関係が分からない。若い女のようにも思える。亡くなったという思い人か。
「何れにせよ、高位の方々の問題とあらば、それにふさわしい者を紹介させて頂きましょう。私の母方は
苛立つ道雅は、長い人差し指で濃き紫の
「
俺の素性など、既に知っているという訳か。またも内心で舌打ちする。
「
「
目を上げてもう一度、相手の顔を正面から見据える。左中将は挑むように表情を動かさない。争う気もない幸親は、憤慨交じりにあからさまな嘆息をする。
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