第2話 土御門西洞院にて

 曽祖父は二人の息子に、それぞれ天文てんもん陰陽おんようを学ばせた。兄は天文を弟は陰陽を家の職とした。だが、兄の子は誰一人として父親の仕事を継がなかった。

 幸親ゆきちかの父親、安倍吉幸あべのよしゆきは五十にして従四位下じゅしいげ播磨守はりまのかみ、安倍ほどの家では異例の出世だと周囲が言う。七つ年上の兄、昌親まさちか六位蔵人ろくいくらうどとして、若いながら麹塵きくじんほう主上おかみより賜った。四つ上の姉の春子は、命婦みょうぶとして三条の皇太后の許に出仕する。

 この家で異色なのは俺だけか、本末転倒な劣等感だと二十歳になった幸親は思う。

「確かに祖父おおじは寮の一臈いちろうかみでもありました」

 来客の喉の辺りを眺めながら幸親は語る。

「されど、父や叔父、兄は家の仕事が合わぬと、後を継ぎは致しませんでした。祖父にとって唯一の後継ぎが私になります。しかし見ての通り、取るに足らぬ若輩者に過ぎませぬ」

 この日の夕刻、幸親が一人で暮らす家にやって来たのは、左中将の藤原道雅ふじわらのみちまさだった。

してや私は陰陽生おんようしょうですらありませぬ。この春にようやく、天文得業生てんもんとくぎょうしょうになったばかりです。私への御依頼は、卒爾そつじながら見当違いと言わねばなりませぬ」

 左中将は三十四歳、中関白なかのかんぱくけ家の嫡系にふさわしい美男ぶりだ。蔀戸しとみどを下した部屋の小さな燈火の下、着ている枯色かれいろ直衣のうしすら、まったく地味に映らないのが癪に障る。

 常より空薫物からたきものなどしない部屋に、不似合いなほど華やかな香りが漂う。この男の衣香えこうではあるが、幸親にとっては鼻につくだけだ。しかし、それ以上に左中将の傍らに何かの気配を感じる。悪意や邪気の類ではないが、妙に神経を尖らせる。

天文生てんもんしょう暦生れきしょうから陰陽師おんようしになる者もあろう。御身はその年で得業生、行く行くは先の陰陽博士おんようのはかせにも劣らぬ陰陽師になろうと噂されているのではないのか」

 そのような買い被りも迷惑至極、得業生の任命も祖父らの七光りだと、寮の内では陰口を言われている。

「噂など無責任で勝手なものです。私などを大叔父と比べるのも片腹痛い。一条の家でも笑い話にされていましょう」

 先の陰陽博士とは、寮の一臈である安倍吉平あべのよしひらで、祖父の弟に当たる。一条大路に屋敷を構え、右大臣とも親しく酒を酌み交わす老人を、世間は類まれな陰陽師と称える。

「わざわざ我に忠告をしたのは御身であろう。そこまでして、あれは無かった事とでも言うのか」道雅は檜扇ひおうぎを手の内で開きつつも、整った薄い唇の端で笑う。

 こういう嫌味なほどの貴人は、本当に苦手だ。幸親は内心で毒づく。この男に忠告などしたのは、明らかに酒の上での失態だ。あの時は、背を向けた男の傍らに禍々しい気配を感じた。刹那、女の長い髪が見えたように思う。何者かは分からないが、男に対して良い思いを抱いてはいない。

 しかし、今、傍らにいる気配も女ではないのか。こちらの印象はまるで逆だ。

「私の手には余る事です」溜息を飲み込んで言う。

 左中将に付きまとう噂は、とかく物騒だ。夜の往来で夜盗を切り殺したの、屋敷に押し入った盗賊を射殺したの、挙句は盗賊と間違えて検非違使けびいしを殴り倒したのと、どこまでが本当なのかは分からない。荒三位あらさんみの呼び名は、文字通りの乱暴者を表す。

 ところが、関白の屋敷で出会った左中将は、まるで別人だった。誰が、この典雅な貴公子に、そのような悪評を上塗りしたのか、悪意以外の何物でもない。要するに、未だ敵の多い御仁なのだろう。そして敵の多い御仁は、よりによって家まで訪ねて来た挙句、忠告された事に心当たりがあると言い出す。

「私の所に来られたとは、よもや、心当たり以上の事があったのでございますか」少しばかり嫌な予感がする。

「鬼に出会でおうた」あまりに素っ気なく答える。

「いつの事にございましょう」つい、いぶかしげに問い返す。

「昨夜、屋敷に戻る時だ。既に夜半は過ぎていたか」

「場所はどちらになりましょう」

「堀川大路を下り、二条に差し掛かる辺りだったか」

 夜半に二条とは、随分に時と場所を選んでくれたものだ。幸親は内心で苦笑する。往古より鬼に出会うはうしこく、二条大宮の『あははの辻』と相場が決まっている。況してや昨夜はたつの日、霜月から師走のこの日、夜に外に出てはならない。鬼が夜行すると都人は信じている。


 左中将は言う。車の内でウトウトしていた時、多くのざわめきと足音が聞こえた。御簾みすの陰から声のする方を伺えば、遠くに火が揺れるのが見えた。従者に場所を問えば、二条大路の辻だと言うので、早々に通り過ぎろと命じた。ところが牛が全く動こうとしない。声や火が近づいて来ると、従者らは逃げ場を捜してうろたえる。半泣きになって車の下へと潜り込む。道雅も御簾を閉ざし、懐に忍ばせた護符を握りしめる。

 かつて曽祖父の東三条の大臣おとど(藤原兼家)が、この辺りで鬼の夜行にあったと聞く。その時も護符の霊験で無事を得たという。

 御簾の隙間から揺れる火影が見える。数多あまたの足音に笑い声、嬌声が車を取り囲む。固く目を閉じて身を縮めた時、何者かの手が首筋をつかんだ。ねと叫んで、護符を肩越しに突き出せば、気配は息を継ぐ間に消えた。間もなく騒然とした音も去り、鬼火も見えなくなった。

 外に声をかけると、車の下から這い出す従者が答える。何か見たかと問うが、誰もが恐ろしさに目を閉じて震えていたと言う。ただ、車の下に潜り込む前に、はっきりと形の分からない影と明かりが迫っていた。耳を塞いでも聞こえる怒声と共に通り過ぎて行ったが、それらは突然に消えた。何があったのか、本当に分からない。


「鬼の夜行やこうとは、そのようなものなのか」

「さて、実際にうた事はありませぬ。しかし、護符の霊験はあらたかだったようですな」

「ああ。そくを預けた僧正にもらうたふだだ」

尊勝陀羅尼経そんしょうだらにきょうにございましょう」

「そのようなものが、本当に護符になるのか」

「信じればこその守りです。信じぬ者にはなりますまい。御子息の御師おしは信じておられるのでしょう」

 噂に聞く左中将は、先妻との間に生まれたただ一人の男子を仏門に入れ、何某なにがし僧正の弟子にしてしまった。今は三条坊門あたりに住む藤原何某の娘を妻としている。鬼に会ったのは、その妻女の許から帰る時だったのだろう。

「御身は鬼を見た事はないのか」

「見えぬものを鬼と言いましょう。されど御見様は、そのような鬼よりも更に恐ろしい者を存じ上げておられましょう」

公卿くぎょうどもは鬼より恐ろしいか」

「高位の方々に限る事では在りますまい。暗き心に鬼は生ずる」

「そうよな、我はそれを御身に相談しとうて来たのだよ」

「では、一条の家に文をしたためます。陰陽権博士ごんのはかせ安倍時親あべのときちかに話をしてみましょう」

「いや、土御門西洞院つちみかどにしのとういんに住まう、安倍幸親に話をしたい」

 今度こそ、幸親は大きく息を吐く。祖父はどのように依頼を断っていただろう。物心ついた頃から、祖父に連れられて色々な家を訪れた。奇妙な事があったから占って欲しい。要件は、そのような呪師ずしへの依頼とは違う。様々な立場の人々が、それぞれに身勝手な相談を持ち掛ける。時には相手を阻止して欲しい、陥れて欲しいとまで言う。

 左中将は表情を抑えた目で幸親を見る。肩先から上る微かな気は焦燥の色を示す。幸親が視線をまっすぐに向けると、逃げるように視線を膝に落とし、焦燥の色を消して口を開く。

「御身は恋をした事はないか」

 緊張していた幸親の心の糸が微かに緩む。

「我には、今も忘れえぬ御方がおられる。訪なうた時、あの御方はいつも琴を弾いてくれた。白い指がいとの上をたゆとう様を夢見心地に見ていた。その様な時が我にもあった」

「その御方は」好奇心が頭をもたげると、緩んだ糸を弾く。

うなられた。我を呪うと言うた女は、その方の思いですらもののしおとしめようとする。おのれの生まれを誇るのも、我を落ちぶれ者と言うも勝手だが、許せぬ事は我とてある」

 目を細めて笑いはするが、立ち上る気からは怒りの色が滲む。

「恨みを抱く相手が、お判りになられたのですね」

「ああ。関白の姉君、太皇太后様に仕える女房にょうぼうの一人だ。その女房の元には関白も通うておられると聞く。このような女を関白と争う気もない。別れ話を切り出したが、女は納得せぬ」

 かくして色恋沙汰の修羅だ。幸親にしてみれば苦手この上ない。まだ出世争いで相手を蹴落としたがる輩の方がましだ。

「厄介な事にございますな、関白様が絡まれるとは」

 道雅の傍らの気配も女だが、話に出た女房との関係が分からない。若い女のようにも思える。亡くなったという思い人か。

「何れにせよ、高位の方々の問題とあらば、それにふさわしい者を紹介させて頂きましょう。私の母方は賀茂かもの家、そちらに依頼する事も可能です」書かれた文章を読むような口調で幸親は言う。

 苛立つ道雅は、長い人差し指で濃き紫の指貫さしぬきの膝を打つ。何故、八多良拍子やたらびょうしなのだ、気づいた幸親は笑いそうになる。

賀茂守道かものもりみちの娘の子を知っておろう。幸親という秀才だそうだ」

 俺の素性など、既に知っているという訳か。またも内心で舌打ちする。

如何然様いかがさように、その者にこだわりますのか」

高陽院かやのいんの宴で、その者が小さな鬼に蘇莫者そまくしゃを舞わせるのを見た。そのためだ」

 目を上げてもう一度、相手の顔を正面から見据える。左中将は挑むように表情を動かさない。争う気もない幸親は、憤慨交じりにあからさまな嘆息をする。

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