蘇莫者
吉田なた
第1話 高陽院にて
外から入る風に乗って、
肩越しに半ば振り返った奏者の顔には見覚えがあった。つい先程まで、廂の内にいた若者だ。
「
若者からは道雅の姿は影になるが、こちらからは
「今しがたの……」影は何なのか、問いたかったが欄干の上には何も見えない。
「
「いや、見事な腕前にあられるな」
「恐縮致します」
少しうつむく姿は、悪戯をとがめられた子供のようにも見える。
「
「
安倍の姓は
「少し、酒を過ごしたようだ」道雅は独り言つ。
「私もです」
応えて微笑む幸親の顔は、妙に老成して見えた。奇妙な印象を持つ男だ、にわかに興味を覚えたが、それ以上に交わす言葉が思いつかない。
「邪魔をして悪かった。我は戻るとするか」
立ち去ろうと
「御身様、
「何だと」
「いえ、失礼を申し上げました」
またも決まり悪そうに下を向く。
「恨みなど数知れぬ。故に世間は、
幸親は小さくうなずいて、手にしていた笛を懐中に戻す。年の割には地味な
「御身には心当たりがあるのか、我が誰その恨みを買う」
「分かりませぬ。しかし、相手は女人かと思えます」
おかしな物言いだ、まるで
「そちらも覚えが有りすぎるわ」苦笑気味に道雅は応える。
「浮いた話ではありませぬ。女は宇治の川面に髪を浸したやも知れませぬ」
「宇治の川とは、どういう意味か」
「宇治でも加茂でも良いのですが……
「鬼になって男を取り殺したか。面白うもない例え話よな。とどのつまりは浮いた話ではないのか」呆れたように道雅は言う。
幸親は伏し目がちに溜息をつく。
「私の
「誰そに頼まれたのか、御身は。我に忠告して来いとでも」
「そうではありませぬ。が、もしも覚えのある事ならば、それなりの者に相談されるのが賢明かと思われます」
何やら、年相応にうろたえているのが滑稽だ。道雅は笑いに緩みそうになる口元を引き締める。
「要らぬ世話だ。
「その御言葉、否定する気はありませぬ。しかし、私の言葉を信じるも信じぬも御身様次第です」
「それを要らぬ世話と言うのだよ」道雅は言い捨てて背を向ける。
話している内に、そこはかとなく気味が悪くなる男だ。古い仏像のような、黒目勝ちの目をしている。それ故か、視線を合わせた者を気後れさせる。
いささか憤慨しながら、懐中を探って
―― * ― * ―—
名を呼ぶ声に
「今、
「ああ」
「何の話をしていた。御主があのような男と、知り合いには思えぬが」
非難がましく聞きながら、
「
隆国は道雅に限らず、九条流の藤原氏にあまり良い感情を持っていないらしい。父親の民部卿は
「御主は奇妙な事に、笛の腕前と
「家業でも、少しは褒められておるぞ」鼻先で笑いながら幸親は言う。
「今更、何を言うか」
高笑いする友人の顔を見て思う。俺のような
「何にせよ、陰口を叩かれる男と関わっても、御主には特になるまい。どうせなら、宮中でのし上がりそうな相手とつるめ」
「御主のような、か」
「分かっておるではないか。ともかく、荒三位には関わるな」
「時に、俺に用事があって来たのではないのか」
隆国はといえば、荒三位の去った西対の方を気にしている。
「ああ、関白が御呼びだ」向き直った隆国は軽く答える。
「
「何故と言われても、御主を連れて来いとの仰せだ。まったく、この寒いのに、こんな所で何をしておるのだか」
「飲みすぎたから、酔いを醒ましているだけだよ」
霜月も冬至を過ぎ、夜の冷えは一層厳しい。まだ雪は降らないが、屋外にいては一刻もたたないうちに凍えてくる。
「皆、酔ってもなお火鉢を抱えておるというに、御主は寒うはないのか」
「いや、寒いと言えば、かなり寒い」
改めて周囲を見回し、首をすくめる。篝の火が消えかけているのに、誰も薪を補充に来ない。ここの下男らも屋内で火鉢を囲んでいるのだろう。
「言うておくが、関白の御前で笛など吹かぬぞ」
所望もされまいがと思いつつも、一応の憎まれ口をきく。
「
「何もした覚えはない」
「そうか、それならば良いのだが。御主の
「ああ、重ね重ね、すまぬ事だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます