【完結済】ハログラムの魔女と公安調査官 the vestige of nowhereman

殆堂 親澄(ほとんどおやすみ)

序章:事件

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 僕は【透明人間】になっていた。

 確かに世界が見えているのに、自分の姿がどこにも見えない。

 地面の感触を伝える足の裏も、掌が握る空気の温かさも、胸の中に脈打つ鼓動も、全てが実感できるというのに、誰もが自分のことなど気づかずに通り過ぎていく。

 不思議と声も出なかった。

 ぼうっとしていれば、自分でさえ自分のことを忘れてしまいそうだった。

 意識しなければ簡単に消滅する【自己】。

 

 自分を縛り付ける社会や正義といったものは存在しない。

 禁じられている行為を、罪を、解放された心の思うままに実行する。

 どんなに喰っても飢えていた。

 どんなに犯しても乾いていた。

 自分の中には虚しさが残るだけだった。


 それでも、人を殺す。

 それでも、街を焼く。

 足掻くように、泣き叫ぶように、懺悔するように、愚かさを重ねていく。

 ……どうして?

 

 わからない。

 わからない。

 わからない。

 

 血液と煤で汚れた赤黒い手が浮かび上がる。

 そうだ、これが自分の輪郭だ。

 おぞましい人のカタチをした何かが、灼熱じみた世界の終わりで、燃え尽きるように踊っていた。


 ――そして夢から醒める。

 恐ろしさに身震いしていた。

 体温、汗、シーツの肌触り。

 乾いた口内を潤すために、立ち上がり洗面所へ向かう。

 地面の感触を伝える足の裏も、掌が握る空気の温かさも、胸の中に脈打つ鼓動も、全てが実感できる。

 これが現実だ。

 

 洗面台の蛇口を捻る。

 流れ出す水道水。

 顔を洗い、口に含み、吐き出す。

 興奮の熱が少しずつ冷めていく。


 鏡の向こうにいる人物と対峙しよう。

 濡れた前髪、半覚醒な目つき、毎朝剃っても生えてくる髭。

 水滴の垂れる鼻筋と頬骨は父親に似てきて、無駄に長い睫毛とハッキリした目元は母親から譲り受けたものだ。

 誇らしくあると同時に、両親の特徴的なパーツを継承して繋ぎ合わせているだけだとしたら、アイディンティティとは、パーソナリティとは何か。

 ――じゃあ、お前は誰だ?


 鉄穴カンナクロウ:それが自分を識別する名前。

 司法省公安情報庁調査官:それが自分の所属する組織と役割。

 2993U 1893G 3377B 4014N:それが登録されている自分の静脈認証ナンバー。

 生年月日、身長、体重、血液型、歯型、顔面と指紋と虹彩と声紋と静脈と遺伝子:要するに自分の生体情報記録。


 ……これ以上、どうやって自分自身の存在を証明すればいい?

 例えば精神、思考、自我、意識、記憶、人格、意志、あるいは魂。

 これらはいったい、どこに名前をつけて保存されているのか、どのように残すことができるのか。

 これらにもし実体があるのだとしても、液体や気体のように容器によってでしかカタチを保てないとしたら、個性なんて初めから独立して実存しえないのではないか。

 身体や社会に依存する不確かなモノ、人はそれこそ主体であると信じている。

 こんな曖昧な【自分】が、この世に生きて、死んでいく意味とは何か。


「どうやって殺した?」

「なぜ殺した?」

「誰が、殺した?」

「お前は、……誰だ?」


 それさえわかれば、透明人間の【残影】でさえ、見つけることができたかもしれない。


 現実リアル虚構ハログラムが入り乱れる混沌な世界では、不可視の殺人鬼による悪夢が続く。

 まだ、夢から醒めないような気分だった――。

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