惑い返すリフティア
樹海というものは厄介だ。
最初の内は道がある。冒険者が歩き、踏み潰す事で作ってきた獣道だ。
だがそれも奥へと進むにつれて薄れて行き、やがて消える。積雪の影響で道は消え、そして増える木々によって空は遮られ、昼間だというのにどことない薄暗さが常に視界を覆う。それでもまだ日中は雪が陽の光を反射するから何とか見えるだろう。
これが暮れてきたと思うと、とてもじゃないが歩いてはいられない。
慣れていなければ方向を見失う天然の迷路、そして環境故の困難の数々。こういう環境へと挑むには十分な用意と覚悟、そして知恵が必要となる。それを用意できなかった者はこの樹海の養分となる以外の選択肢は残されないだろう。
「……」
「……」
懐中時計を懐から取り出して時刻を確認する。歩き出してから既に参事官が経過している。最初の方は周りの景色を楽しそうに見ていたエヴァも、流石に三時間も経過すると疲れた様子を見せ始めるし、楽しそうな表情も抜け落ちる。
慣れない不安定な足場と、寒さに襲われて彼女の体力は今も削られていた。途中から口数が減って来たのも喋る余裕が徐々に削がれたからだろう。やはり樹海を抜けるのは彼女の体力では厳しいものがある。
「レノア」
『はいよ……ちょっと待っててね』
肩に泊まっていた小鳥が飛び立つとその周囲に少しずつ文字と紋様が浮かび上がる。魔術行使の気配にエヴァが顔を上げる。その間にも小鳥の周りに浮かび上がる文字は増え、やがて魔術が完成される。
『体力譲渡、っと』
完成された魔術が俺に作用し、体力を何割か吸い上げるとそれをエヴァに譲渡した。直前まで疲れた様子を隠そうとしていたエヴァの表情が楽になり、驚いた表情を見せた。
「これは……カシウスさんの?」
「俺の体力を譲渡した。これで今までのペースで歩き続けられるだろう」
あんまり取りたくない手ではあるが。エヴァの足りない体力を補充しつつ移動のペースを落とさないのにはこれが一番だ。ただこれを何度も繰り返していると俺の戦闘用に残してる体力を使ってしまう可能性もある……不意に何かと遭遇した場合、対処能力が大きく落ちるだろう。
とはいえ、そういう不安や懸念は顔に出さず。
「疲れたら遠慮なく言え。俺の体力を分けたり休憩するのは何も恥じゃない。君は歩きなれていないし、慣れている人でもこの環境はキツイものがある。一番重要なのは君が怪我も病気も患わずに国へと帰る事だ。その為なら多少の遅延は考慮してある」
「……すみません、そしてありがとうございます」
表情を見る限りはまだ大丈夫そうだ。再び先導するように歩き出す。この参事官、周囲を伺いながら歩いてきたが未だに敵と呼べるような存在の気配はない。雪霊の民とか呼ばれる連中は樹海のもっと奥にいるのだろうか? このまま遭遇しない事を祈りたいが……難しいかもしれない。
『そう言えばエヴァちゃんも私達の頃みたいに同世代の子たちと仲良くしてるのよね? 歩いている間の暇つぶしにその話をしない? 今の王級内がどうなってるのか気になるのよね』
「私の周りの話ですか」
「俺もそれは少し興味あるな」
「そうですね……」
歩きながらうーん、とエヴァは唸ると、別に面白い話でもありませんよ、と前置きしてくる。
「ユーリ……の話はしましたか? 彼は代々騎士の家系の者で、父が近衛に務めています。代々ロイヤルガードとして王家に仕えてくれた家系で、彼も騎士になり、そこから自力で近衛へとつく事を目標としてます。僅か15という歳で騎士になったのは偉業なはずなんですけど……」
『まあ、10で騎士になった化け物がいると霞むわね』
「所詮は過去の遺物だ。俺はもう国にいないし、戻るつもりもない。その少年を褒めてやれ。15で騎士になれるというのなら十分凄い」
騎士になるには実力、教養、そしてコネクションが必要になる。コネクション―――つまりコネが必要と言うと何か七光りの様なものを感じるが、逆にそれは地位や権力をうまく活用できる能力があるという事を証明している。15歳で騎士になったのなら真っ当な手段を取ったのだろう。
十分才能で満ち溢れている。期待しておいてやれ。
「宰相の娘であるエレイン、彼女も私と一緒に良く勉強しています。歳は二歳程違うんですけど……エレインは凄く頭が良くて、既に教師の手を離れて一人で勉強してるんです。彼女は本当に天才と呼ばれる一握りの人間で……私なんかよりも頭の出来が良いんです。偶に彼女が王になった方が良いんじゃないかって思うぐらい」
『へぇ、今はそんな子がいるんだ』
「レノア様も顔を合わせてる筈なんですけど……?」
「あー、ダメダメ。コイツは興味のないものにはとことん興味を見せないから。覚える努力もしないし。頭が良い程度じゃ顔を覚えないよコイツ」
『いや、だって別に人生に関わる訳でもない連中を覚えておくの、人生の無駄じゃない?』
「あ、あはは、ははは……」
引き攣った笑い声がエヴァから漏れる。まあまあ人格破綻者の集まりだった俺達世代に対して、エヴァの世代はどうやら真っ当な天才たちが集まっているようだった。俺達の様にどこか欠けた人間はその分特定の分野で活躍できる。
だがその代償として人として大事なものを失っている。それは愛だったり、人間性だったり、興味だったり、強さだったり……或いはもっと致命的な何かだったり。個人的な意見を言わせて貰うなら、俺達の様な欠けた天才は存在しない方が良いと思う。
その方が遥かに平和だ。
「カシウスさんやレノア様はお父様たちと一緒だったんですよね? もっと昔の事を教えて貰えませんか?」
「昔の事……」
『と言われても……ねえ?』
前に進みながら小鳥と視線を合わせてとぼける。エヴァと合流してから良く昔の事を思い出すが、思い出の大半がろくでもない事ばかりだ。俺達の遊びとは城外へと飛び出す事が基本であり、大体がセオドリクのろくでもない考えから俺が護衛に当て身を叩き込んでスタートする。
「教育に悪いからパス」
『まあ……確かに教育に悪いわね……』
「そう言われると逆に気になってくるんですけど……!」
知らない方が両親のイメージを守れて良いんじゃないかなぁ、とは呟くが、エヴァは食って掛かってくる。どうしても両親の過去を知りたいと思うのはやはり、二人が死んでしまったからだろうか? 俺も、もう少し早く戻ってくれば良かったのかもしれない。
どんな状況であれ、俺がいれば二人を死なせる事なんて絶対にさせなかっただろう。
そう考えると、己のこれまでに恥じ入るばかりだ。
ざく、ざく、ざく、と雪を踏む音がする。木の根すら雪の下に埋もれて見れない程に白い世界。木々の幹は氷に覆われているところもあり、視界からすらも寒気を送り込んでくる。見えるものも空気も寒い。それでもまだ寒さは本格化していない。中心部へと近づけば近づくほどこの寒さは―――或いは永遠の冬は厳しくなるだろう。
面倒だが、追手に見つからずに帝都へと行くなるとこれしかない。
「仕方がない。何の話をするか……」
語る様な特別な日々ではなかったが、どれも美しい思い出だ。いざそれを語るとなると懐かしさとは別に恥ずかしさもある。が、二人の子供だというのなら特別に語っても良いとは思う。とはいえ語る程面白い内容となると……少し選別に困るかもしれない。
「なら……良いですか?」
エヴァが聞きたい事があるようで、彼女の声に応えるように振り返る。
「実はずっと気になっていた事があって……カシウスさんと会う事が出来れば事実なのかどうかを確かめたかったんです」
エヴァがそう切り出してくる。その言葉の始まりに嫌な予感を覚える。だが過去の悪行なぞ腐る程存在する。過去の己が悪童だった事は間違いないし、それが俺達の青春でもあった。ここから特に知られたくない事は……リストアップ出来る程多い。
困った。大人の尊厳は守れるだろうか?
「カシウスさんとお母さまが昔、恋仲だったという事実は本当ですか?」
「ちょっと待った」
近くの木の幹に手を当て、崩れ落ちる体を支えるように何とか立つ。激しい動機を抑え込みながらゆっくりと振り返りエヴァを見た。俺を見つめるその視線は妙にキラキラしているものだった。明らかにこれまでで一番良い表情を浮かべている。こんな所でそんな顔を見たくなかった。
『エヴァちゃん、エヴァちゃん。お姉さん怒らないからちょっと聞くけど……それ、誰から聞いたの?』
「お母さまが良く自慢げに言ってましたが」
流石に崩れ落ちる。
『か、カシウスっっ!! しっかりして! アンタ抜きでどうやってこの魔境を抜けるって言うのよ! ほら、倒れてないで起きて! これ、現実だから!』
「い、一番知られたくなかった事知られてる……」
荒い息を何とか整えながら立ちあがり、エヴァを見る。成程、色々と聞いているというのは本当に色々と聞かされているという事なのか。動悸が激しすぎて今にも心臓が飛び出しそうな気がするが、それを抑え込んでエヴァと視線を合わせ向き合う。
「良いか、エヴァ」
「はい」
「君にこれからとても大事な事を聞く」
「はい」
ふぅ、と息を吐いてから軽く空を見上げ、信仰している神に祈りを捧げてから聖印を取り出し、もう一度祈りを捧げる。それから冥府に渡ったエリスに怨嗟の言葉を送りそれをキャンセルし、視線をエヴァに戻した。
「解った……君が本当に“色々と”俺の事を聞いているのは解った。具体的にどこら辺まで聞いているのかを聞かせて欲しい―――いや、やっぱり止めよう。この話はまた今度にしよう」
「カシウスさんとお母さまが恋仲で、お母様は本当はカシウスさんと結ばれたくて、昔は婚約してたとか」
「あぁ……ほぼ全部……」
『か、カシウスっっ!』
雪の中に倒れ込む。体から気力という気力が消え失せる。絶対に墓まで持って行くつもりだった話がよりにもよって母から娘へと受け継がれていたなんて知りたくもなかった。降り立つ小鳥がちゅんちゅん、と頬を突いて覚醒を促してくる。
「あの……カシウスさん? 大丈夫ですか……?」
「大丈夫じゃない。大変大丈夫ではない」
「そうですか……」
エヴァはそう言って少し溜めを作ってから、
「―――で、お母さまとの馴れ初め、語りませんか?」
『これは王族の貫禄だわ』
化け物の様な精神性、間違いなくあの二人の娘。もう確信出来てしまう。血だ、間違いなくあの二人の血を継いでいる。
はあ、と溜息を零しながら起き上がる。余りにも衝撃的な事実の発覚から少し錯乱してしまったが、今の茶番で軽く時間をロスしてしまっている。その分を取り戻す為にも歩き出す。そのすぐ後ろにエヴァがついてくる。
「カシウスさん? カシウスさーん? カシウスさん……カシウスさん?」
「聞こえてる、聞こえてる、聞こえてる……聞こえてる」
あぁ、敵地にいるというのにその神経の太さよ。一体その度胸はどこか来ているのだろうか。いや、言わなくても良い。解っている。完全に親から受け継がれたクソ度胸だ。これまで猫を被っていたのか? いや、心のガードが下りたとでも言うべきなのかもしれない。
信頼できる相手として認識されたのを喜ぶべきか。
それとも容赦のなさを嘆くべきか。
「エリスが、本当にそんな事まで」
「自慢げでした」
『顔が凄い事になってるわね』
そりゃあ凄い事にもなるだろう。絶対に誰かに話すべきではない内容が正妃本人の口から零れていたのだから。零れるというかぶちまけるという表現のが正しいような気もするが。
「カシウスさん」
「……なんだ」
振り返り、エヴァを見る。
「王宮に居た頃、お母さまは良い母でした。私に自ら勉学を教え、時間を惜しまず、そして愛といえるものを注いでくれました。おかげで私はこのように恵まれた娘として育ち、恥のない教養を得る事が出来ました。そういう意味で母としての仕事を彼女はこなしていました」
それはエヴァを見ていれば解る。ひねくれた所のない、素直な娘だ。
「同時に母は……正妃としての仕事にも真面目に取り組みました。私が知る限り、仕事の一切を拒否した時はなく、常に真面目に自分の役割と責務を担っていました。尊敬できる母です。それは間違いありません。誰もが母を指差し、彼女を完璧で美しい妃だと言えます」
良い話を聞いている筈なのにじくじくと胃が痛み出す。
「ですが……」
『来たわね、“ですが”の一言』
ですが、とエヴァは言葉を区切って、数秒の間を作ってから言葉を続けた。
「私は、一度も、母が、父に、お母さまがお父さまに……好きとも、愛しているとも、そういう言葉を言った事を見た事がありません」
「吐き気を覚えてきた」
『私も』
そして、とエヴァは続ける。
「これはお母さまが暗殺される前日の事ですが―――その時でも、あの頃に戻りたいと、そう語ってました」
両手で顔を覆い、15年前と一切中身の変わっていなかった故人の中身を理解し、物凄い申し訳なさと絶望感に苛まれる。そして同時に俺が15年前に祖国を出た事が何の間違いでもない事を理解した。
俺の判断は何も間違いではなかった。彼女が、あの魔性の女が15年程度で心変わりする筈もなかった。
樹木に覆われた天蓋を見上げ、静かに天に召されたセオドリクに祈る―――本当にごめん、と。
「カシウスさん、私は本当にカシウスさんとお母さまの関係がどういうものなのか知りたいのです。どうしてそこまでお母さまがカシウスさんに執着するのか、どうしてカシウスさんは国を出たのか……どうして結ばれなかったのか」
ぐい、とエヴァは迫ると見上げてくる。
「少なくとも、私には知る権利があると……思いませんか?」
じい、と見つめてくるエヴァの眼力には勝てない。何よりもその母親に良く似ているその顔でそういう顔をされると……とにかく弱い。
「……俺とエリスの話をするには結構昔まで遡る必要がある。歩きながらするには少々長く、重い話だ。今日の野営地に付いたら……まあ、俺の人生の恥みたいなものを語らせて貰おう」
もう一度空を見上げ、それから懐から懐中時計を取り出し時刻を確認する。少々無駄な時間を過ごしてしまった。暮れる前に野営地につく為にはもう少しペースアップする必要があるかもしれない。
歩き出す動きについてくるエヴァを引き連れ、更に樹海の奥へと向かう。
奥へ、奥へ……更に冬の濃い場所へ。
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