抱き締めた手


 エリちゃんはそれから後も、優に丸五年以上、自宅でパピーのお世話をし続けた。

 寝たきりの状態になれば常に付き添って、父がいつでも快適に過ごせているかどうか気を配ったのだ。

 自由な時間を作る事は困難となり、コロナ禍が世界を襲った出来事がトドメを刺し、私達はお互いの都合を付け合って会う事さえままならなくなっていた。

 そんな中、久しぶりの彼女からのメッセージをスマホの画面に見つけたのだった。

「実は、父が亡くなりまして。」

 折り返して聞けば、既に内々で密葬を済ませたとの報告である。

 『長い間、お疲れ様でした。孝行娘をずっと続けて、本当に頑張ったよね。』

 心に浮かんだ正直な気持ちはこうであったが、軽々しく口にするには、すこぶる失礼にあたると私は感じて、言葉に出す事ははばかられた。

 そんな口先の言葉一つで、労える様な彼女の苦労では決してなかった。

 他の何者も真似できる事ではない、忍耐の極限まで心身を酷使してまでの、父への愛情を貫いた娘の姿がそこにあった。

「パピーは本当に、幸せだね!」

 私は心からの彼女への尊敬と賞賛の意を込めて、電話口で叫ぶ様に言ったのだった。

 更に数年が経ち、コロナ禍も大分落ち着いた頃、私達はようやく会う事が叶った。

 師走の候であったが、彼女のまとう明るいブルー系の軽快なカッターシャツには、カラフルな模様の生地があしらわれていた。

「白髪が増えちゃって、染めないとどうしようもないのよ。」

 上品なブラウンに染められた髪は、若い頃と変わらずに艶があってクセがなく、素直な髪質だ。

 襟足に揃えて綺麗にカットされ、小春日和の下、彼女の歩みに合わせて揺れてなびいた。

 その日、たまたま入ったお店は、お昼時を微妙に過ぎた、場末の中華料理屋だった。

 ランチタイムを終えて調理スタッフが抜けてしまったのだろうか、出て来た中華麺のスープは冷め、麺は伸びてしまっていた。

 付け合わせのザーサイや杏仁豆腐の盛り付けもどこか心許なく、向かい合って座る彼女の素敵なカッターシャツの鮮やかなデザインが、いかにも勿体なく映って、私はモヤモヤしていた。

 それでも、そんな事くらいでせっかくの私達の時間を台無しにされては元も子もないので、

「スープが良い風味だね。」

「麺が柔らくて美味しいね。」

 と、良い所を懸命に探して、幸せな気分を繋ぎ止めていた。

 パピーが亡くなってから、彼女は広いマンションにたった一人で暮らしているのだった。

 朝起きる時も、外出する時も、帰宅、食事、就寝する時もずっと一人。

 子供たちは二人とも巣立って家を出て行ってしまっていた。

 そんな状況を想像すると私は胸が塞がってしまう思いがした。

「エリちゃん、本当に長い間お疲れ様でした。」

 機が熟したかの様に、その言葉は不思議とスラスラと私の口から流れ出た。

「ありがとう。そんな風に言ってくれるの、あなただけよ。」

 それは言い過ぎでしょう、十人が十人とも、千人が千人とも、そう言うに決まってるでしょう。

 そう感じた私の心が表情に表れていたのか、呼応する様に彼女の表情が、伏し目がちなそれに変わった。

「ずっと後悔してるの。」目を伏せたままつぶやいた。

 私はびっくりするあまり、口を大きく開けたままになったが、確認のために一度閉じて、落ち着いて聞いた。

「パピーの介護に関して後悔してるっていう事?」

「そうなの。私はパピーが本当に望んでいる事を何一つ出来なかった。」

 望んでいる事って、あんなに24時間体制で365日たった一人でパピーを支えて、福祉関係のスタッフさんの調整やなんかの諸々の厄介な事も一人でこなして、絶対誰でも出来る事なんかじゃないのに。

 私の頭には、パピーのお夕食を美味しく作って素敵に盛り付けて、品数も十分なのに、「必ずご飯ものと果物を欠かしたらダメなのよね。」と、小さなおにぎりと一粒のみかんを添えて置いてあげていた彼女の姿が蘇っていた。

 あれほどきめ細かくお世話をしていた人が、言うに事欠いて後悔しかないとは、一体全体どういう事なのか。

 パピーの望む事云々としては、究極的には、連れ合いであるお母様には叶わない事は彼女も承知の上であろう。

 娘として父の望みをおもんぱかって、出来る限りの努力を惜しまなかったではないか。

 頭の中が混乱する様な思いの私をしり目に、彼女は近況報告を始める。

「家の中にいて何もしないでいると、頭がおかしくなって来るのよ。」

「なんでもいいから外に出て仕事をしないと気がふれそうだから、最近、学童保育のお手伝いをしてるの。」

 放課後の元気いっぱいの児童達と、毎日楽しく過ごしている様子を身ぶり手ぶりで伝えてくれる彼女の表情は、先程とは打って変わって明るい。

 子供好きで優しく、体力もあってバイタリティに溢れた彼女にピッタリのお仕事だ。

「お陰で、夜も眠れる様になって来たの。パピーの葬儀の後から、少しずつ眠れなくなっちゃって、ずっと辛かったのよ。あんまり続くから、病院に行ってみたらお薬が出てね。それを飲んだら何とか眠れる様になって来て、最近ではお薬を減らして、サプリメントを飲んでみてる。いい感じだよ。」

「そうだったんだね。」

「全然眠れなくて、眠ろうとすればするほど苦しくて苦しくて、とうとう一晩中そうやっていて、朝焼けの空が白白と明るくなっていくのを見る時の気持ちって、本当に絶望的なのよ。」

「……。」

 「ほら、真人の時がそうだったじゃない。明け方だったのよねえ。あの時も。」

 ガツンと脳天を金槌で殴られた様な気がした。

「ああ、あの時真人はこういう気持ちだったんだなあって、よく分かった。」

 夫が一人で逝ってしまってから正に三十年が経ち、血反吐を吐く思いで心身をすり減らして父の介護を全うし、一人ぼっちになってしまった朝ぼらけの布団の中で、夫の思いをまざまざと感じる事が出来たという事なのか?

 私は彼女からもはや目が離せず、凝視していた。

 なぜ、夫は私を置いて、一人で逝ってしまったのだろう?彼女はあの時からずっと長い間、いつもいつも問い続けていたであろう。

 答えて貰えない質問を、いつも心の中で、静かに、あるいは怒りを伴いながら、あるいは悲しみに暮れながら、彼女は生きている限り問い続けて行くのだろう。

 しかし今、父を見送り、心の支えを失い、失意の底にいる様な日々の中で、彼女は、亡き夫の思いを、実感として共有する事が出来たのだ。

 予想だにしなかった事に違いない。

「自分から命を絶ってしまった魂は、天国には行かれないのかな。」

 私の前で不安を吐露していた彼女に、私は今までずっと何も言ってあげられなかった。

 でも、今私の目の前で、エリちゃんは亡き夫に会っていた。

 エリちゃんのその両手で、夫の背中を温かくそっと抱いているのだと思った。

 パピーが導いてくれたに違いないと感じた。

 彼女は再び夫と出会ったのであった。

 夫を抱き締めたその両手で、エリちゃんはこれからまた、新しい人生を切り開いて行くのだ。

 そっと立ち上がり、凛として前を向いて、正に歩み出さんとする彼女の瞳は、明るい笑みに彩られている。

 私は座ったまま顔を上げて彼女の顔を追う。

 そんな白日夢を確実に見た。

 歩き出した彼女の背中に向けて、私は叫んだのだった。

「待って。私も行く。私も一緒に連れてって!」


 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

抱き締めた手〜いとしのエリー〜 たーちゃんさん @100sail

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る