第28話 消えた

 マヒヌルが立ち上がった。

「さあさ、昔話はこれくらいで切り上げだよ。祭りの支度の仕上げだ」

 確かに彼女の言う通りだ。このさい俺の父上が誰なのかは脇に置いておこう。決めてセリムは祭壇に向き直る。

 祭壇の上には楕円形の石が一つ置かれている。

 マヒヌルがセリムに指示した。

「この石の上に利き手を置いてごらん」

 セリムは右手を石の上に置いた。

 石がぼうっと光る。同時に神殿が震動した。天井が、柱が、壁がそしてセリムの足元が、同じように光る。

 立っていられない。セリムは祭壇に手をついた。マヒヌルはすぐ近くに建っている柱にしがみつく。小刻みに神殿は揺れる。

「マヒヌルどの、これは」

 叫ぶセリムにマヒヌルも叫び返す。

「『地の母』のところへ向かう。そこで語らうのさ。『大波乱』を防ぐにはいかにすべきかと」

 そのとたん、セリム自身が光に包まれた。足が床から離れる。

 ザガノスは三年前に退職した大神官ケナンを呼びに行った。ハルドゥンとジハンギルは神殿の外で目を光らせている。しかしこれだけ揺れているのだから、柱ににしがみついて耐えているはずだ。

「でっ、殿下っ。うっ――浮いてる!」

「マヒヌルどの!」

 セリムは叫ぶが、光に包まれてその声はマヒヌルまで届かない。

 マヒヌルが、卵のような形をした光に閉じ込められたセリムに手を伸ばす。

「殿下!」

 セリムからは彼女が見えた。光の殻を叩こうとするが、ふわりと拳がかするだけだ。

 マヒヌルの目の前で、セリムは光ごと消えた。

「殿下っ」

 大声で呼ぶマヒヌルの足元がさらに揺れる。

 そして、低くゆったりとした声が、下から聞こえた。

 ――セリムは、預かったよ。

「『地の母』――」

 祭りの進行は理解していても、実際その場で何が起こるかまでは、マヒヌルは教えられていない。

 揺れが収まった。

 ハルドゥンとジハンギルが駆け込む。

 マヒヌルはセリムが消えたところに目を向けたまま、床に力なく座っていた。

 ジハンギルがマヌエルの隣に膝をつく。

「ばあちゃんっ、怪我はないかっ」

「怪我はない、けど……」

 ハルドゥンが部屋に視線を走らせて呼ぶ。

「あれ?殿下は?殿下?」

「消えたよ」

 マヌエルをジハンギルとハルドゥンが同時に驚いた顔で見る。

「消えたんだ。『地の母』が、つれてった」

 虚空を見つめたまま言ったマヌエルだが、すぐに気を取り直して立ち上がった。若者二人に尋ねる。

「ザガノスはケナンをつれてきたかい」

「まだだよ」

 答えたハルドゥンにマヒヌルは言った。

「おまえさん、確か、技消しだったね」

「ああ、そうだけど」

「ザガノスは技を使えるのかい」

「使えない」

「――じゃあ、あたしとケナンで何とかするしかないってことだね」

 ハルドゥンがジハンギルに聞く。

「おまえは技を使えないのかい」

「うん。全然だめ」

 そこへザガノスとケナンが到着した。ケナンはマヒヌルと同じ年、バルタオウルよりも年長である。

 息を切らし、ケナンはかつての同僚に言った。

「お、おい、マヒヌル!いったいどういうことなんだ、何があったと言うのだ。『地の母』を祭るなど、そんな、急に――」

 マヒヌルは厳然と告げた。

「『大波乱』を防ぐ祭りを執り行う」

 ケナンがしりもちをつく。

「ええっ?そんな!供物も装束も用意してないじゃないか」

 マヒヌルはケナンを見下ろす。

「いらないよ、そんなもん。祈る気持ちが大事だって、あたしたちは教わってきたし、教えてきたじゃないか。『大波乱』よけの祈祷を執り行えるのは、アルドナ広しと言えどもあたしとおまえさんだけなんだ」

 冷静にケナンに答えたのがザガノスだ。

「猶予がありませぬ、師匠。満月まであと二日ですが、祈祷は今から開始しなければ間に合いませぬ」

 マヒヌルはすっかり現役の神官だった頃に戻っていた。

「ちょうどいい。ザガノス。猶予がない中で悪いんだけど、おまえさんにもこの祈祷を教えよう。軍人あがりなんだって?覚えるのも早かったってケナンがべたぼめだったよ」

「恐縮です。教えてくださいませ」

「そうこなくちゃ」

 ジハンギルとハルドゥンに、マヒヌルは言いつけた。

「おまえさんたちも手を貸しな」

 若者二人が決意してうなずく。

「ああ!」

 ケナンは首筋の汗を手巾でぬぐった。

「――では、このまま始めるしかないな。ザガノス」

「はっ」

 ザガノスが直立不動で返答し、ケナンと共に並ぶ。マヒヌルが真ん中でケナンが彼女の右、ザガノスが左に並ぶ。

 マヒヌルに指示され、ジハンギルとハルドゥンが彼女の前に出る。祭壇に向かって剣を捧げ持つ。

 マヒヌルがザガノスに言う。

「あたしのあとについて唱えるんだ」

「心得ました」

 マヒヌルがおごそかに、祝詞を上げ始めた。ケナンとザガノスも唱和する。

 五人の周りを、煙のような淡い光が取り巻いた。

 祭壇が、部屋が、よく実った小麦のような金色に輝き出す。

 マヒヌルが伸ばした両手をゆっくりと持ち上げる。

 すると祭壇の上の壁に、カイエ皇帝が現れた。

「陛下?」

「黙ってな、ジハンギル」

 驚く孫を静かにたしなめ、マヒヌルは祝詞を続ける。

 カイエ皇帝ジャムスが壁に映っている。彼は雨に打たれ、風に袖や裾を持っていかれそうになりながら、天に向かって何事か唱えている。彼の周囲には宰相イスハク始め主だった大臣たちが列を整えて見守る。彼らもまた雨風を真正面から受け、よろめきながらかろうじて立っている。

『地の母』の祭りと同様、天に対する祭りも、満月の二日前から執り行う。天と地を同時に祭ることに意義があるのだ。

 ジャムスとセリムは天と地を同時に祭ることによって、『大波乱』を未然に防ごうとしているのである。

 そして祭壇に映るジャムスもまた、セリムと同じ光に包まれる。あわてふためく大臣たち。宰相イスハクが叫んで、卵の形をした光に駆け寄る。

 見守る全員の前で、ジャムスも消えた。

 ――行って参れ。ジャムス。

 重々しい声がした。その声はマヒヌルたちの神殿にも届いた。

 帝国の始祖カイエたちが信仰してきた、天の声だった。

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