第27話 レイハーネの思い出

 ここは宮殿の敷地内にある広大な墓地である。

 ジャムスとセリムが祭りの用意をし、ミカエラが陣痛に苦しんでいる頃、ケマルとネディムはセリムの生母レイハーネの墓前にいた。

 ケマルが、市場から買ってきた花束をそっと供える。墓地への道々、二人は、ネディムの妹レイハーネと、彼女の息子セリムの思い出話をしてきたのだ。

「レイハーネは、幸せだったのだな」

 震える声でネディムは言って、まぶたを伏せる。

 ケマルは並ぶ墓石の向こうを見た。雑草を刈り取った広い敷地の果てには海原が広がる。

 曇り空を映す鉛色の海を遠く眺めやりながらケマルは一人言のように言った。

「二人が貧民街に追いやられたのは、セリムが生まれてすぐの頃だったなあ」

 ネディムが聞きとがめる。

「おまえ、なぜセリムを呼び捨てにする」

「俺は殿下を呼び捨てにしていたのか」

「ああ」

「――すまん。ぼうっとしていた」

「貧民街に移されたあともレイハーネはくじけずに、ランカにいた時のように明るく過ごしていたと聞いた時は、あいつならそうだろうなと思ったよ」

「そう。そうだ。レイハーネ……妃殿下は、セリム皇子とよく市場に買い物に出かけた。安くなった野菜や肉を買って二人で食事を作り、俺にも食べさせてくれた」

「娘の時分から値切るのがうまかったよ、あいつは。ついでにうまい飯を作るのもな」

「朗らかで、人の痛みがわかる女性だった。俺は二人のもとへ行くのが楽しみで仕方なかったよ」

「セリムが十二の時レイハーネが亡くなり、セリムとおまえは宮殿に戻された」

「同時に俺はもとの勤め先だった天文省に戻るよう命ぜられた。同じ宮殿にいるから、殿下の様子をよく見に行ったものだよ」

「ハイダルが今年死んで、今の皇帝が即位した。そしてセリムは自害を命ぜられたが、逃げた」

「俺が説得したんだ。殿下は、それがカイエのためになるのならと、毒の入った杯をあおごうとしたのだよ。それを俺ははたき落とした。ほんとうにそれでよろしいのですかと。死ねと命ぜられたらおとなしく死ぬのですかと。そうしたら殿下は生きたいと仰せになられた」

「おまえのおかげでセリムは生き延びてくれた。感謝しかない」

 ケマルに深く下げた頭を持ち上げ、ネディムは思案顔で尋ねる。

「ほんとうにいいのか、セリムのもとへ行かなくて」

 ケマルは疲れた笑みを返した。

「もう俺が殿下にご助言申し上げることは何もないよ。ここからは殿下ご自身の頑張りになる。俺は殿下を皇帝の位につけようとしていたが、殿下がそれをお望みにならなかった。殿下はこう仰せになられた。両親共にアルドナ半島の出身ならば、他にも技を使えるかもしれないと。張り切っていらしたよ」

「両親共にアルドナ半島の出身であっても、技を使えない者も多い。俺もその一人だ」

「おまえは暗殺が得意じゃないか、ネディム」

「最近はしていないがね」

「その方がいい。流れる血はできるだけ少ない方がいいからな」

 海から風が吹いてくる。

 満月まで、あと二日。



 都イスティンの郊外に建つ、アルドナ半島で最も大きな神殿では、神官マヒヌルがセリム皇子と向かい合っている。

『地の母』を祭る祭壇の前で、マヒヌルはセリムの生い立ちとこれまでのいきさつを聞き終えた。

「――思い出したことがある」

「何ですか」

「安産祈願に訪れる女は掃いて捨てるほどいるけれども、珍しく一人きりでお参りに来た女がいたんだ。珍しかったからよく覚えてるよ」

「普通は、夫や両親と来るということですか」

「おまえさんはずいぶんと賢い子だねえ。その通りだよ。乗り合い馬車に乗ってきたのも珍しかった。普通はつれあいや親きょうだいの馬車で来るのにね。その女は安産祈願を申し込んだ時、お布施としてきれいな色の石を納めたんだ。滅多に手に入らないような、高そうなやつをね」

「その石は、今もあるのですか」

「ないね。残念ながらそういったものは、神殿を直したりするための費用として職人に給金として渡しちまうことが多いんだ」

「それでその女性は、祈願をして帰ったのですね」

「それだけじゃなかった。たまたま祈願を担当したのがあたしだったので、お茶を出してあげて、よもやま話をしたのさ。お一人で大変ね、おつれあいはご用事か何かで来られなかったの、とね」

 セリムは眉をひそめた。

「何と、言っていたのですか」

 マヒヌルは祭壇に目を向ける。

「それだけは、神官どのにも、申し上げることはできないのですと」

「なぜ私に、そのお話を……」

 マヒヌルはセリムの目をまっすぐに見て、言った。

「似ているからだよ、おまえさんとその女が」

 セリムの顔からゆっくりと血の気が引いていく。

「まさか……彼女は……俺の……」

 マヒヌルは目をそらさない。

「お母上じゃないのかと、あたしは考えるねえ」

「――では、俺のほんとうの父上は……」

「秘密にしておかなければ、お母上はただじゃあすまない。だから言わなかった」

「いや。――心当たりがあります。俺が生まれてすぐ、母は俺と貧民街に移されました」

「――先帝はおまえさんの父上ではないという、何よりの証拠だね」

「では――誰なのだ、俺の父上は……」

「鳥と話ができるというのは、誰もが使える技じゃあないよ。カイエの末裔どもの血を引いてたらそんな技は初めから使えない。つまりおまえさんの父上は先祖代々アルドナ半島にいた者ということになる」

 セリムは目を見開いた。

 ――まさか。俺の父上とは……。

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