第26話 女官たちが走る

 さて、宮殿ではイネスがエメルに後宮を案内していた。

 宮殿は海に牙のように突き出した陸地の上に建っている。後宮は海風を真正面から受ける場所にあった。

 エメルとイネスは回廊から海を眺める。対岸はミカエラの母国ヘラス王国だ。

 エメルが肩をすくめる。

「寒い」

 イネスが苦笑いを浮かべた。

「今日みたいに風が強いとね」

「向こうはもう、ヘラスなのでしょう」

「そう。天気がいいと、王宮が見える」

「ミカエラ様がお住まいだった所か。ところでイネスさん、聞いてもいいですか」

「何だい」

「イネスさんはミカエラ様に長くお仕えしているのですか」

「そうでもない。まだ三年だよ」

「とてもミカエラ様のことを心配しているみたいだから、ミカエラ様がお小さい頃からお仕えしているのかと思いました」

 イネスは目頭を押さえる。エメルが自分の口を手で覆った。

「ごめんなさい。あたし、余計なことを聞いてしまいました」

「いいのだよ。もともと私は王宮とは関わりのない身だったのだから。関わりがあったのは一人息子のニコマコス。近衛軍にいた」

「軍人さんだったのですね」

「ニコマコスは姫様づきの武官の一人に取り立てられてね。姫様と同い年だったし、姫様もお兄様たちに混じって武芸を習っておいでだったから、うちの子もお相手を務めていたのだよ。ところがそのうちにね」

 イネスは左右を見て、エメルを促して回廊を早足で通りすぎた。

 改めて誰もいないことを確認し、イネスはエメルと女官たちの待機部屋に入る。背もたれのない低い椅子をエメルに勧め、イネスはうつむいた。

「姫様とうちの子が、親しくなったのだよ」

「恋をした、ってことですか」

「そう。うちの子は、たまの休みにうちに帰ってくると、それはもう顔が輝いていてね。何かいいことでもあったの、と私が尋ねると、とても嬉しそうにうなずいた」

「でも、ミカエラ様は、カイエに嫁いでこられたわけですよね」

「二人があまりにも仲が良いから、兄王様が二人のことをお調べになってね。すぐさま陛下との縁談をお決めになった。現に兄王様の第二夫人は陛下の従姉妹様であらせられるし、次はヘラスから嫁を送る番だったから」

「それで、息子さんはどうなったのですか」

「南海岸の防備を命ぜられたのだけど、その夜に、ダラマ神の神殿で――」

 イネスの目から涙が流れた。

「ダラマ神というのは、火の神様で。真実を司る神でもあるのだけど、その神殿で、自分の体に火を……」

 エメルは言葉を失う。

「遺書が、兵舎のあの子の部屋にあって。それには、ミカエラ様は潔白でございますと。すべてそれがしが勝手に、ミカエラ様に懸想していただけでございますと。ヘラスでは、身の潔白を示すために、ダラマ神の前で自らを焼くという習わしがあって。危ないので禁止されていたのだけど、あの子はミカエラ様を守りたかったのだろう」

 イネスは自分の頭を両手で抱えた。

「それを知ったミカエラ様は、腰まであったお美しいお髪を切っておしまいになって……。そのお髪をニレケ神に捧げてしまわれた。ニレケ神は夫を亡くした妻を守る神様でね。ミカエラ様の行いは二度と夫を迎えないという決意を表すものだったのだよ。兄王様も、ミカエラ様のお母様もそれはもうお怒りになって……それでもミカエラ様はうちの子について一言も仰せにならなかった。私はあの子が燃えている所へ駆けつけて――」

 イネスは息子を燃やす炎に叫んだ。

「お願い、もうやめて、燃やさないで――そう叫んだら、あの子の声がした」

 ニコマコスは言った。

「泣かないで、母さん。俺は、幸せだったよ……そしたら火が消えた。そして私はその日から、火のアルテを使えるようになった。ミカエラ様はお輿入れの日まで離れに閉じ込められてしまって。王宮の周りのかがり火からニコマコスの声がした。あの子がミカエラ様の居場所まで導いてくれた。そして私はミカエラ様に願い出た」

 ――わたくしはニコマコスの母でございます。お願いいたします。おそばでお仕えさせてくださいませ。息子の分まで働きます。

「ミカエラ様は、私をかくまってくださった。兄王様も、ミカエラ様のことはあきらめておしまいになっていたらしく、私がおそばに控えているのをご覧になっても一言もおっしゃらなかった。どうせ他国へ嫁がせるのだから、女官の素性など大勢に影響はないとお思いになられたのだろう。以来、私は、いや、ニコマコスと私は、ミカエラ様にお仕えしている」

 エメルはイネスの手を包んだ。エメルもまた泣いていた。

 ミカエラのそばにいる女二人は、肩を寄せあって涙を流した。

 するとばたばたとあわただしい足音が迫ってきた。ミカエラづきのカイエ人女官ギュナナだ。

「イネスどの、妃殿下が」

 涙を拭いて気丈にイネスは尋ねた。

「妃殿下が、いかがいたした」

 女官は叫んだ。

「陣痛、陣痛が、始まりました!」

 エメルも涙を手のひらでこすり、眉目を引き締める。イネスに言った。

「あたし、何をすればいいですか」

 イネスは努めて冷静に二人の少女に伝えた。

「エメル、お医者様がさっき通ってきた回廊の入り口に詰めているから呼んできて。ギュナナ、厨房に頼んでお湯をたくさん沸かして持ってきて」

 少女たちは強い声で答えた。

「かしこまりました!」

 即座に別の方向へ走り去った少女二人を見届け、イネスも裾をからげてミカエラの寝室に走った。

 満月の夜まで、あと二日。

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