第16話 迫る火の鳥
ところ変わって帝国の都イスティン。
皇帝ジャムスは机の上にひじをつき、こめかみを支えていた。
「セリムが、生きている。しかもメティンが差し向けた近衛軍まで味方につけた」
額に汗の粒を浮かべた宰相イスハク、眉間に深い縦じわを刻む天文省長官ルステム、そして皇后ミカエラが机をはさんで皇帝の前に並ぶ。
ゆるくうねる黒髪をあごの線で切り揃えた青い瞳の皇后ミカエラが、決然として言った。
「陛下。わたくしが参ります」
ジャムスはヘラス王国から嫁いできた美しい妻を視線で強くつかんだ。
「皇后たるもの、軽々しく動いてよいものではない。それにそなたは」
ミカエラは夫たる皇帝の言葉に固い声をかぶせる。
「ご心配は無用にございます。カイエ帝国に大波乱をもたらすやからは即刻取り除くべきと存じます。何とぞ行かせてくださりませ」
宰相イスハクと天文省長官ルステムが、美しい皇后を、信じられぬと言いたげに見やる。
ジャムスは一度まぶたを固く閉じ、思い切り開けた。そして先ほどの迷い悩む姿を打ち消すように立ち上がり、胸を張る。
「よろしい。ゆくがよい、皇后」
「心得ました、陛下」
首もとまできちっと締めた襟元に長い指を揃え、皇后ミカエラは一礼した。
宮殿の柱と柱の大きく開いた空間から、イスティンにじゅうたんのごとく敷き詰められた家々の屋根が見えた。
皇后ミカエラの長身は屋根と屋根のつらなりの向こうに向かっている。
夕暮れどきである。ミカエラが立つこの部屋にも、ろうそくに火がともされた。
「イネス」
「はい、姫様」
低い声で応じ、五十くらいのヘラス人の女がミカエラの背後にひざまずく。
ミカエラは振り返り、イネスを見下ろした。
「覚悟はできていますね」
「できております」
「セリムの居場所は、ガジの神殿。間違いありませんね」
「はい、昨晩、火に聞いて確かめました。夕げの支度にどこの家でも火を使います。ですから火は嘘をつきません。間違いなくセリムはガジの、神官ザガノスが住む神殿におります」
「では、今すぐ出発できますか」
「ええ、姫様」
言うとイネスは並ぶろうそくの一本に近寄り、燃える小さな火に両方の手のひらをかざした。
「さあ、おまえ、私の姫様のお役に立っておくれ。私におまえの翼をおくれ」
すると小さな火がイネスの手のひらに燃え移った。イネスの体が炎に包まれ見えなくなる。炎は翼を広げた鳥の姿に変わった。鳥はミカエラの方へ顔を向け、イネスの声で告げた。
「お乗りくださいませ、姫様」
ミカエラは眉をいからせ、目に力をこめ、唇を引き結び、強く短くうなずいた。そして床にひれ伏したイネスの背中にまたがる。
主君を乗せてイネスは、星が現れ始めた藍色と赤紫色の空に向かってはばたいた。
さて、敵が向かってくるとも知らないセリムたちは、ザガノスの神殿で夕食の卓を囲んでいた。
エメルが、セリムとヌール、ハリルがむいたいもをスープからさじですくって口に入れる。
「殿下があんなに上手においもの皮をむくなんて、びっくりしちゃいました」
セリムもエメルがきざんだそのいもを口に運ぶ。
「貧しい暮らしだった。だからいつも市場で売れ残った野菜や肉を買っては、母上と食事を作っていた」
ヌールが卓の真ん中に置いた大きな鍋からおかわりをよそう。
「でも、どうして皇帝のお世継ぎともあろうお方が、母上とごはんを作るような暮らしをなさっていたのですか」
ヌールからおたまを譲り受け、スープをよそいながらセリムが答えた。
「私の母上は、父上に歯向かった国の統治者の娘だったからだ。その統治者は父上とのいくさで亡くなった。もう兄ジャムスが世継ぎに決まっていたので、私と母上は宮殿から、貧しい人たちが住む区画に移るよう言われた。父上が命じた者たちが私と母上を監視し、少ないけれど暮らしていくための金は与えられていた」
ケマルがスープを飲み干し、さじを空になった器の中に置く。
「うまかったよ、エメル」
エメルが目と口を三日月の形にして笑う。
「ありがとうございます。おなかいっぱいになりましたか」
「ああ、二杯もいただいた」
ケマルは席を立った。
「殿下、外を見回って参ります」
セリムがヌールやハリル、ヤクブにムサにネディムにハルドゥン、そしてバルタオウルやザガノスと共に食べながら顔を上げる。
「気をつけろよ」
ケマルは笑みを返した。
「何かあればすぐにお知らせいたします」
そう答えて星空の下にケマルは出た。
ケマルの背後からアルタンの明るい声がする。
「さあ、焼けたぞ」
バイラムとエメルがかごに山盛りにしたパンを卓に置いた。香ばしく温かなにおいが部屋を満たす。
トゥグルクは歩きながら焼きたてのパンをかじっている。バイラムが年上の同僚をにらんだ。
「座ってから食べろよ」
トゥグルクは噛みながら答える。
「食いたい時に食いたいものを食って何が悪い」
エメルがパンを一口食べてアルタンに言う。
「おいしい!軍人さんなのにパンも作れるのですね」
アルタンがパンを口に運びながら片目をつむった。
「俺はもともと食事係だったのさ」
何本もの腕がパンを積み上げたかごに伸びる。
その様子を背に、ケマルは一人、読むためだけでなく、ただ星星を見る。先ほどのセリムの、母との貧しい暮らしを屈託なく語る声が、表情が、彼の胸をきつくしぼる。
本来であれば、皇子づきの役人は、途中で異動することはない。それなのにケマルはセリムが十二歳の時に天文省に異動させられた。その理由を知る者は、今は亡き先帝ハイダル二世だけである。
感傷にひたるのもそこまでだった。
ケマルの視界に、燃える火の鳥が迫ってきた。
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