第10話 皇帝ジャムスが受けた報告は

「そ、それは何なのですか」

「これだ」

 ジャムスが自身の左手を持ち上げた。

 イスハクはジャムスの左薬指の指輪に顔を近づける。

 楕円形の面に複雑な曲線が描かれている。カイエ帝国の皇帝である証だ。

「しかし陛下、この指輪は一つしかないはずですが」

「皇帝一人につき一つだ。ケマルは何らかの方法で、父上の指輪を持ち出した」

「何という大それたことをしでかしたのか……」

 ケマルはイスハクより二歳年上だ。セリムが十二歳になった年にケマルは天文省に異動した。それまでは共に皇子づきの官吏として交流があった。

 ジャムスは神殿の、石と石とのすき間から雑草が生えている階段を降りる。

「セリムの行方はまだつかめていない。こちらが差し向けた追っ手も消息を絶った。何かわかるかと思いここまで来たが、徒労であったようだ」

 イスハクが三歩遅れてついてくる。

「私が技を使えましたら少しはお役に立てたのですが……申し訳ございません」

「私も技を使えぬ。それに、技は万能ではない」

「確かに。技の効果や規模には個人差がありますし、不発に終わる場合もあると聞いております。また、技を無効にする技消しも少数ですがいるとか」

「そうだ。これはあくまでも『地の母』に由来する、アルドナ半島に昔から住む人々のみに許された技術なのだ。また、アルドナ半島に昔から住み着いている人でも、使えない人も多いそうだ」

 神殿から降り、二人は歩く。帯同してきた騎兵たちが二人に揃って一礼する。

 ジャムスが無人の神殿をあおぎ見た。

「ここも整備しなければならないな」

「お言葉ですが陛下、『地の母』には、皇帝は代々触れてはならぬとの、大神官との暗黙の約束がなされております」

「大神官が命じなければ、各地の神官も動けぬということか」

「その大神官も不在のまま、はや三年――各地の神官たちの連携も取れておらぬとの報告を受けております」

「子供も減っている。こちらも対処しなければ。産めよ殖やせよと言ってきたが、生まれても育つ子はわずかだ。医師の育成も見直さねば。帝国が成り立ってからすでに二百年、かげりが見えている」

 ジャムスとイスハク、騎兵たちは都に戻った。二人が不在の間は官僚たちと近衛軍が留守を守っている。星読みたちは今晩も空を見上げ、配置図を作成している。

 帰った後、自身の執務室の机の上に書類が山積みになっている様子を思い浮かべ、宰相イスハクは身震いがした。それは皇帝ジャムスも同様であった。そのほとんどを決済するのは、他でもない自分であるからだ。

 唯一の朗報は、セリムの居場所がつかめたことだった。就寝前のジャムスのもとへ、近衛軍司令官メティンが平服で現れたのである。

「メティン、夜遅くまでご苦労」

 ジャムスは寝間着から平服に着替えて出迎えた。

 カイエ帝国の官僚が着る平服とは、筒袖とズボンの上から羽織る、袖無しで丈の長いベストを指す。ベストには複雑で細かい刺繍がほどこされている。

 メティンは引き締まった細身を直角に折り曲げる礼で応じた。

「陛下、お休みのところ申し訳ございません。ご報告申し上げます。セリム皇子は南部軍駐屯地を目指して、東部ランカを騎兵隊にまぎれて出発しました」

「供回りの者は誰か」

「我が近衛軍より差し向けたムサ、ハリル、ヤクブ、ヌール、そしてケマル。東部軍司令官ウトカンの命を受けた将校ハルドゥン、クズルバシュの頭、ネディム」

「見事な働きだ」

「物見を使うのは武将として当然のことでございます」

「クズルバシュ――我が帝国に弓引くランカの残党か」

 カイエ帝国の言語でクズルとは「紅」、バシュとは「頭」という意味である。ランカ国の民は頭に赤い布を巻いてカイエ帝国の官吏や軍人を襲った過去があるため、こう呼ばれる。

 ジャムスはメティンに尋ねた。

「南部軍は用意しているか」

「我が手の者たちが待ち構えておりまする」

「南部軍司令官は、バルタオウルであったな。彼は我らの味方であるか」

「セリムを送り出したウトカンと連携する関係でありますゆえ、セリム側につく恐れも高いと思われます」

「懐柔は困難か」

「老いてますます盛んな宿将でございますが、臨機応変な対応には定評がありまする」

「では、こちら側につく可能性もあるということであるな。そちらも頼む」

「すでに手は打ってありまする」

 メティンは深く響く声で言下に答えた。

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