第6話 すみやかに出てこい
「誰だい」
低い、ひっそりとした男の声がした。セリムが慎重に名乗る。
「セリムです。レイハーネの息子のセリムです」
女の驚いた声もする。
「ええっ。嘘だろう……」
扉が静かに、細くゆっくりと開かれた。
つり上がった眉、少しだけ垂れた目尻、高い鼻の四十くらいの男がすき間に体を見せている。
ムサがつぶやく。
「殿下によく似ている」
四十くらいの男が、豊かなひげに包まれた口を開いた。
「セリムか」
セリムはうなずく。
「はい」
「ネディムだ」
「おじ上、ですか」
ネディムは扉を全開にし、セリムの頬に手のひらを触れさせた。その目に涙が浮かぶ。
「確かにレイハーネの面影がある。おまえがここにいるということは、そういうことなのだな」
セリムの目にも涙が満ち、ネディムの手に流れた。
「はい……」
ネディムがセリムを胸に抱きしめた。セリムもネディムの背中に腕を回す。
家の中から四十くらいの女が顔を出す。ネディムやセリムよりも頭ひとつ背が低く、ふっくらした体型だ。やはりネディムと同じく、赤い布を頭に巻いている。
彼女は口を両手で押さえ、目をうるませた。
「まあ、ほんとうにセリム……」
ネディムが腕をほどき、手で彼女を示した。
「妻だ。カディーヤという」
「――おば上」
セリムが呼ぶと、カディーヤもセリムを抱きしめた。
「レイハーネとあたしは、子供の頃から一緒だったんだ。――さ、中へ入って。後ろにいるのはお友だちかい?」
「はい」
声を詰まらせながらセリムが答える。
ネディムがケマル、ムサ、ハリル、ヤクブ、そしてヌールを手招きした。
「ランカにも人相書きが回っている。身を隠そう」
八人はネディムの自宅の、狭い居間で卓を囲んだ。カディーヤが温かいお茶を並べる。
「ちょうどよかったよ。ひと仕事済んで、お湯を沸かしていたところだったから」
山岳に住むランカの人々や、帝国の始祖カイエたち騎馬遊牧民族にとって、お茶は水分補給のためだけではなく、血のめぐりをよくするためにも欠かせない栄養源である。
ネディムが一口お茶を含む。
「畑があったろう。ほとんどが茶畑さ。丸く固めて発酵させ、売りに出す。俺たちランカはこれで飯を食ってきた」
お茶が入った器を両手に包み、ハリルが言う。
「大陸のはるか東にある国でも、お茶は作られているのだろ。運び賃だの手間賃だのがかかってるのだろうが値段はそんなでもないよな。だからうちの兵舎でも買って、休憩の時にみんなでよく飲んでいたよ」
ヤクブがお茶にふうふうと息をふきかける。
「どこの国でもよく飲んでいるから安いのだろ」
「うまい」
ヌールが笑顔になる。セリムも一口飲んですぐに目を細める。それを見てカディーヤもにっこりした。
「おかわりしとくれ」
ケマルが座り直した。
「さて、ここまで幸い刺客にもあわずに来ることができたが、ランカには先帝が任命したくそ真面目な軍司令官がいる。びっしりと捜査網をはりめぐらしていることだろう。そこでこのあとどうするかを協議したい」
「ウトカンのことか」
ネディムがすぐに答えた。
「今、アトラ山のふもとに住むのはほとんどがカイエの人々だ。俺たちランカの民はここにまとまって住んでいる。ハイダルと俺たちのいくさが終わったあと、残していったのがあいつだ。むやみに手出しはしてこないが、ランカの民は厳しく見張られている。俺たちはハイダルに抵抗していたから、ふもとで茶葉を売るにも、毒は入っていないかとか細かく調べられる。値段も安くつけられてしまって、もうけも少ない」
ヤクブがすまなそうにネディムに言う。
「それで安くなってるのか。初めて知った」
ネディムが苦笑した。
「いいのさ。むしろセリムが訪ねてきてくれたのは俺たちにとって幸運さ」
「どうして?」
セリムが問うと、ネディムは笑みを見せたまま言った。
「ウトカンはここに攻めてくる。そうすれば俺たちも心置きなく反撃できるというわけだ」
ケマルが顔色を変えて窓を見る。
「来たぞ」
八人はすぐさま床に身を伏せた。
床を這いずり、ケマルが扉に耳を寄せる。振り返り、両手の指を広げて残りの七人に見せた。
「十人はいるってことか」
人のよさそうな丸顔に似合わぬ鋭い声でムサがつぶやいた。
窓から何かが飛び込んできた。卓の上に置かれたままの器にぶつかる。器が倒れ、お茶がこぼれて広がり、床に垂れる。
セリムが卓の上を見た。
「矢だ」
外から声がした。
「我らはカイエ帝国東部軍司令官ウトカンの命により派遣された。セリム皇子、そこにいるのはわかっている。すみやかに出てこい。出てくるのであれば、これ以上は射たない」
ケマルが膝立ちになり、扉の取っ手に手をかけた。床に伏せる七人を見る。
七人とも、うなずいた。
ケマルが扉を開ける。
矢を構えた歩兵たちがずらりと並んでいる。十人以上いる。
ケマル、セリム、ネディム、カディーヤ、ムサ、ハリル、ヤクブ、ヌールが飛び出す。
ケマルが叫んだ。
「ハリルっ、手を貸せ!」
ハリルがえらの張った顔でにやりと笑う。
「やろう」
二人は同時に地面に手をつき、叫んだ。
「頼むぞ!」
歩兵たちの足元が、ぐにゃりとゆがんだ。
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