第5話 アトラ山が見える場所

 アルドナ半島は海に突き出した握りこぶしのような形をしている。平地は海沿いにあるだけで、あとは高地だ。ちなみに都イスティンは半島の北北西、つまり突き出したこぶしの上側にある。

 セリムの母レイハーネが生まれ育ったランカ国は半島の東に存在していた。アトラ山という、ランカ国の象徴とも言える高い山があり、その山のふもとに広がる平地にレイハーネとその家族が住んでいた。

 アトラ山が大きく見える場所まで進んだ頃には、五人が交わす言葉は増え、声は柔らかくなり、雰囲気は温かくなっていた。

「追っ手だった時のように話してくれればいい」

 セリムはヤクブ、ヌール、ハリル、ムサにそう言った。

「俺はもう、第二皇子でもなくなった。ただの十七歳なのだから」

 明るい声を出したのはヌールだ。

「ああ、よかった。俺、こういう言葉づかい、苦手なんだよね」

 ヤクブが目玉をぎろっとヌールに動かした。

「おまえ、はっきり物を言い過ぎる」

 ヌールがヤクブにしかめっつらを向ける。ムサが笑って、言った。

「始まったぞ、ヤクブの世話焼きが」

 ハリルがえらの張った顔に笑みを広げ、セリムとケマルに説明する。

「ヌールはみなしごでね。部隊に配属された時期がヤクブと一緒なんだ。ヤクブは七人きょうだいの末っ子でさ。年下の面倒見がいい。下にきょうだいが欲しかったんだろうな」

 セリムがヌールに尋ねる。

「ヌールは今年でいくつになるんだ」

「十六歳」

「部隊に配属されたのは?」

「十五の時だから去年」

「ずいぶんと早いな。二十歳前の兵は少ないと聞いているが」

「これこれ」

 ヌールが笑って、自分の右腕を左手で叩いた。

 セリムが眉を上げた。

「入隊審査で試験官から一本取ったということか」

「そういうこと。でも殿下を追っかけてる時は、裏拳で一本取られたけどね。次は必ず勝つ」

「俺は剣よりこっちが得意なんだ」

 セリムが両手を握って顔の前に持ち上げる。

「なんで皇子様がそんなことが得意なのさ」

「住んでいたところが、イスティンのはずれだったからさ。暮らしに困っている人たちがたくさんいた。ののしり合いや殴り合いも多かった。俺たち子供同士でも同じさ。みんないらいらしてるから、ちょっとしたことでも争いになる。武器を買う金も持ってないから、使えるのは自分の手足だけ。俺なんか相手に一本だけじゃなくて四、五十本は取られてばかりだったさ」

「自分で学んだの、戦い方を?」

「見よう見まねでね」

「すげえ。でも、皇子様なのに貧しかったのはなんで?」

「父上は滅多に通って来なかったし、渡される金もわずかだ。食べる物や着る物も少なかったから、母上はよく俺を市場につれていったよ。そこで買ってきた物で食事を作ったり、着る物を作ったりしてくれた」

「皇帝の奥さんと息子なのに?」

「跡継ぎはいるし、皇后はすでにいるから」

「じゃあなんでセリムを産ませたのさ」

「従えた国の娘を妻にしたからだろ」

「ひでえ」

「でも、母上との暮らしは楽しかったぜ」

「楽しかったってことは――今はその」

「去年、亡くなった」

 ヌールが下を向き、か細い声で言った。

「ごめん」

 セリムがヌールの背中をぽんと叩いて笑う。

 ケマルが吹き出す。

「まるで幼なじみのようですな」

 ヤクブはアトラ山を前に足を止めた。目を細めて眺める。

「すごい山だな」

 どっかと座ったたくましい男のようなアトラ山のふもとに、ランカの家々の屋根が点々と見える。

 ハリルがセリムに確かめる。

「おっ母さんの身内がいると言ってたが、その人たちはまだ生きているのか」

「母上の兄がいる。困った時は頼っていいと、母上は俺に言い残してくれた」

 ムサがセリムの横に並んだ。

「お母さんはランカを治めていた人の娘さんだったと話してたな。そのお兄さんだから、今、ランカでもえらい人ってわけかい」

「いや、父上が命じた役人が治めている」

「そしたら殿下のおじさんは今、何をして暮らしているんだ」

「――わからない」

 ヤクブが振り返り、セリムに尋ねた。

「そのおじさんの居場所はわかるのか」

 セリムはすぐに答える。

「わかる。もうすぐ着く」

 セリムはしかし、ランカの街なかには入らなかった。その手前、今下りている山の中腹に固まる家々を目指す。

 どれも平屋で、木でできている。ヤギや羊が放牧されていて、世話をする人の姿がぽつり、ぽつりと見える。畑もあり、野良仕事をする人たちもいる。

 その人たちは皆、頭に赤い布を巻いていた。

 セリムの母レイハーネの兄が住むという家の扉を、セリムは叩いた。

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