クーデター 〜矢筈森・安達太良山・薬師岳〜
早里 懐
第1話
すれ違いざまに挨拶をする。
道を譲り合って感謝をする。
時には励まし合い、時には感動を分かち合う。
これらを見ず知らずの人たちと頻繁に行う。
こんなに平和なスポーツが山登り以外にあるのだろうか…。
そんなことを考えながら妻と一緒に安達太良山を登っていた。
しかし、事件は突然起こった。
まさに青天の霹靂であり、なんの前触れもなく妻が日本の法律を変えかねないクーデターを起こしたのだ。
4日前、私は友達と安達太良山に登った。
そこでの出来事や感動した景色などを妻に伝えると、妻も安達太良山に登りたいと言い出した。
本日、5月5日子供の日。
私たちは特に予定がなかったため、安達太良山に登ることにした。
本日は子供を最寄りの駅まで送ってから出発した。
いつもよりものんびりとしたスタートだった。
天気予報は連日の晴れだ。
今日も爆裂火口をこの目で見ることができると思うと朝から気分が良かった。
妻もカロリーを存分に消費できることが何よりの楽しみということで、いつにも増してお喋りが止まらなかった。
途中、喋りすぎて疲れたと言うほど喋り倒したのだ。
一体この先どれほど話芸に磨きをかけようとしているのか。
末恐ろしい人だ。
安達太良高原スキー場の駐車場はGW期間中の登山日和ということで山開き前ではあるが、半分近くが車で埋まっていた。
私たちは支度を済ませて出発した。
本日も妻の希望通り反時計回りの周回コースを歩くことにした。
馬車道では多くの登山者とすれ違った。
私たちの出発が遅かったためか、すでに下山してきているのだ。
私たちは下山してくる人たちと、すれ違いざまに「こんにちは」と挨拶を交わした。
このやり取りは登山における素晴らしい文化であると思う。
街中ですれ違っても他人同士の挨拶などはない。
しかし、登山は違う。
すれ違いざまに挨拶が交わされるのだ。
これは共通の趣味を持った人間同士の労わりあいだと私は思っている。
登山は楽しいことばかりではない。
急登や岩場など疲れや緊張が押し寄せストレスがかかる時もある。
しかし、その困難を乗り越えたからこそ素晴らしい景色により深く心を動かされるのだ。
その思いを共有しているため、見ず知らずの他人同士でも労りの気持ちから挨拶が交わされるのだと私は考えている。
私たちはくろがね小屋の前に辿り着いた。
少しばかり休憩して行動食のせんべいや羊羹を食した。
疲れた体にカロリーが染み渡った。
しばしの休息後、私たちは出発した。
ここからは突然登山道の様子が変わる。
今までの緩やかな馬車道から一変し、ザレ場の急登になるのだ。
ここでも多くの登山者とすれ違った。
私が「こんにちは」と挨拶をすると、先ほどまで後に続いていた妻の「こんにちは」が聞こえなくなったのだ。
私は心配になり振り返ると、妻の頭のてっぺん、正確に言うと妻が被っている帽子のてっぺんしか見えない状態だった。
あまりの疲れから顔を上げることができないようだ。
ひたすら地面を見つめ、一歩一歩…いや半歩半歩登っている。
前を歩く私の背中など見てはいない。
どうやら私がかき鳴らす熊鈴の音色で私の位置を把握し後をついてきているものと思われる。
鈴の音色に反応してついてくるのは妻かキョンシーくらいだろう。
念のため額にお札を貼った方が良いか妻の顔色を確認した。
問題はなかった。
次に体調に問題がないか確認した。
すると腹筋を一切使わない囁きボイスで微かながら「大…丈夫…」と答えた。
私は妻に少し休憩するように提案した。
その案はすぐさま妻によって可決された。
私たちは石に腰掛けて休憩した。
その時だ。
妻は突然、登り坂での挨拶禁止法を国会に提出すると言い出したのだ。
「こんにちは」と挨拶をされても、あまりの疲労から声帯ですらも本来の仕事を放棄するようだ。
よって、挨拶を返すことができず、無視しているかのように思われてしまうのが嫌だと言い出したのだ。
私はそんな妻に対して、
下山している人は皆、登りの大変さを経験している。
それ故に挨拶が返ってこなくても、それは決して無視されたなどとは思わないはずだ。
と進言した。
しかし、妻は全くと言っていいほど聞く耳を持たない。
終いには登山の三種の神器の一つであるトレッキングポールを高々と掲げて「Follow me!」と叫ぶ始末だ。
まさに令和のジャンヌダルクである。
自らの案に同意するように架空の民衆を鼓舞しているのだ。
妻はとても興奮している。
そんな妻に対して私はどうにか思いとどまってもらうように説得した。
そんな乱暴な法案を国会に提出したら日本中のハイカーを敵に回してしまうからだ。
しかし、妻は止まらない。
体は座っている石に根がはっているようで腕以外は微動だにしないが、心の昂ぶりは抑えきれないようだ。
そんな妻は声帯が職場放棄をしても問題がないように「おはようございます」や「こんにちは」などの文字が流れる電光掲示板をそれぞれが持参すると言うとんでもない代替案まで出してきたのだ。
しかし、そんなことをしたら電光掲示板を自分で担がないといけないと妻に伝えた。
すると荷物は防寒着しか持たないと心に決めている妻は、その代替案をすぐに棄却した…。
そんなやり取りをしていると妻も冷静さを取り戻してきた。
しばらく休憩したのちに私たちはまた歩き出した。
妻のジャンヌダルク化を防ぐためにペースを落として歩き出した。
牛の背を越えると今日も爆裂火口を見ることができた。
相変わらず凄い迫力だ。
目隠しでこの場に連れてこられ、ここが惑星ですよと言われても私は疑わないだろう。
それくらい地球感がない場所なのだ。
私たちはしばらく景色を眺めた後に安達太良山の山頂に登頂した。
その後は山頂広場で軽食をとり下山した。
下山時、妻はいつも元気だ。
よって、すれ違う登山者と元気よく「こんにちは」とあいさつを交わしたのは言うまでもない。
最後になるが私も一つ国会に提出したい法案ができた。
それは、「登り坂で辛い時は無理に挨拶を返さなくて良い法」だ。
この法案が国会で可決されることで妻の感じる負い目が無くなれば幸いだ。
クーデター 〜矢筈森・安達太良山・薬師岳〜 早里 懐 @hayasato
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