第10話

「っは」


 私はまた目覚めてしまう。まあそれならそれでいいか。またいつものように朝食を取り、お姉ちゃんを起こしに行く。何度目かの小学校に行き、授業を受け、お姉ちゃんとともに家に帰る。ああ、いつも感じていた不安が無く、心が安らいでいる。こんなにも私は自由だったのか。


「ねえ、華。どうしたの? 悲しいことがあったの?」


 お姉ちゃんは何を訳の分からないことを? もう悲しいことなんてありはしないのに。


「華の可愛いお顔が涙で台無しよ。何があったのかお姉ちゃんに教えてちょうだい」


 私は泣いてなんか……あれ、前が見づらいな。景色が滲んでいるようだ。どうして、涙なんか。私に泣く理由なんて残っていないのに。涙がこぼれないように上を向きながら答える。


「……泣いて、なんかないよ。これはそう、……汗だから」


「……ちょっとスマホを借りるわよ」


 そう言ってお姉ちゃんは私が上を向いて動けない隙に手際よくポケットからスマホを抜き出す。


「これでよしっと」


「何をしたのお姉ちゃん?」


 ハンカチで涙を拭い終わり、ようやくお姉ちゃんの方を向く。


「いや、ロック画面を私の写真にしただけよ。はい」


 そう言ってスマホを返してくる。見ると確かにお姉ちゃんの写真がロック画面になっている。


「どうして?」


「華には私がいるよってことを知ってほしくて。華は、人を頼れるような性格じゃないでしょう。だから、一人でいるときに私もいるよってことを思い出してほしいの。本当は私に相談してほしいけど、華はきっととことん一人で思い詰めてしまうから」


 確かにそうかもしれない。相談できるような人は今までほとんどいなかったのだから。でもお姉ちゃんに相談できない理由は他の人とは違う。私だけはお姉ちゃんと対等でありたいから。


 家に着き、部屋に上がったものの何にもやる気が起きない。今までは勉強をがんばっていたが、その理由がもはや見当たらなかった。夕食を食べ、お風呂に入り、寝る準備を終わらせベッドに入る。目をつぶりながら考える。今までになく空虚だ。私は解放されたはずなのに。


 数か月が経ち、前より冷静になった頭で周りを見てみるといろいろなことが分かった。お父さんはよく疲れた様子で家に帰ってくる。夜中こっそり聞き耳を立ててみると、いろいろな仕事の愚痴を言っていた。お母さんも大変そうだった。夜に何か薬を飲んでいるところをたまたま目撃してしまい、後でこっそり確認してみると睡眠薬だった。なんでもおばあちゃんは家がもっと影響力を持っていた時代を知っているため、そうでない現実が不満なのだそうだ。だから、お母さんにはいつも重圧がかかっていて、私たちが優秀であってほしいと考えているのもそこが原因かもしれない。


 だから仕方がない、そう、仕方がないんだ。


 お姉ちゃんとは距離を置こうと思った。そうすればいくらか自分の気持ちが落ち着くとそう思ったからだ。だけど、なぜだかお姉ちゃんの方から私に関わってくるのだ。


「ねえ、華。勉強で分からないところとかあるかしら?」


「華? 入るわよ。 今日は何してた?」


「華、今日は何をする?」


 あの日からお姉ちゃんは華、華、華と、2言目には私の名前を呼ぶくらい話しかけてくるようになった。前までの人生でこんなに干渉してくることはなかったのに。私が離れたらお姉ちゃんも離れていったくせに。


 最初の頃は、面倒だからすぐに話を切り上げていたけど、何度も何度も話しかけてくるので次第に普通に話すようになってしまった。そんなある日のことだった。私は今までの人生を経てお姉ちゃんに聞いてみたくなったことが一つあった。


「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんはどうして勉強してるの?」


 前々から一度聞いてみたかった。どうして勉強をしているのか? 私とどう違うのか? お父さんやお母さんの期待に応えるためとかだったら納得できるかもしれない。その気持ちが私より強いのだろうと。楽しいからと言う理由でも良かった。そうであれば、苦しみながら学ぶ私は勝てないと。とにかく私は納得できる理由が欲しかった。お姉ちゃんにはあって、私にはないものの理由が。


「そうね、……昔はそうしろと言われたから勉強していたわ」


「今は違うの?」


「今はね、華を幸せにするために勉強をしているの」


「どういう意味?」


「そのままの意味よ。華にもし何があっても私が守っていけるように」


 そう言われた瞬間、私の心は急激に冷えていった。絶望としか言い表せないほどの苦しみが私を襲う。


「……部屋から出てって」


「どうして? 何が悪かったの? 私はもう少し話していたいわ」


「いいから出てってよ!」


 そう怒鳴るとお姉ちゃんは渋々出ていった。部屋で一人になった私は体の内から湧き上がる痛みをこらえるためにうずくまる。私は彼らと違ってお姉ちゃんを理解したかった。お姉ちゃんを見上げるんじゃなくて隣に立ちたかった。お姉ちゃんを助けてあげたかった。でもお姉ちゃんにとって私は、庇護の対象で対等などではなかったのだ。

 

 その日を境に私は、お姉ちゃんと話すのをやめた。徹底的に拒絶することでお姉ちゃんもどうにか諦めてくれた。

 

 そうして、壊れた心のまま中学受験を迎え、私は見事に落ちたのであった。

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