4-3

 気持ちのよい、夏の初めの夕暮れだった。まださほど暑くなく、さわやかで優しい風が、あずまやを通り抜けた。池の表面は静かで、一日の最後の光に輝いていた。良はふと気になることを思い出した。


「心配そうな顔をしてた」

「え?」


「さっき、ここに座ってさ、心配事があるって感じの顔で池を見ていた」良はそう言って、蘭花の顔を見上げた。「何かあったの?」


「ええ、大したことではないんだけど……」蘭花が言葉をにごす。「……いえ、大したことね、でもあなたには関係のないことでもあって……」


「俺には話せないようなこと?」


 良はじっと蘭花の顔を見つめた。蘭花は横顔を向けており、その表情はくもっていた。秀に何かあったのだろうか。にわかに不安になってきた。


「いえ、そういうことではないわ。――うちの船が帰ってこないの」

「船? ああ、そういえば、君たちのお父さんは船を持っていたね。それで外国と貿易をしているという……」

「そうなの。その船がね、予定ならもう帰国しているはずなのに、それがまだ帰ってこないの」


 苦い表情で遠く見つめるように、蘭花は言葉を続けた。


「船と積み荷を失えば、お父様を大きな痛手を受けるわ。ううん、それだけじゃない。船にはたくさんの人たちが乗っているの。彼らの命も心配だわ」


 良は黙っている。蘭花は視線を変えぬまま言った。


「航海は恐ろしいものだわ。たくさんの危険がつきものなの。船が難破することはそんなに珍しいことではないわ。でも――人々は外の世界に行きたがるのね。秀もそうなの。でも私には無理。私はずっと――ここにいたいわ」


 蘭花はそう言うと、良のほうに顔を向けた。目を細め、表情が優しいものになる。


「あなたはいいわね。あなたには翼があるもの。あなたはその翼で、いろんなところに行ける」

「そんなことは――」


 そんなことはない、と良は言いかけた。どこにでも行ける、だなんて。船が難破するならば、鳥だって長距離の飛行の間にいろいろな恐ろしい目に会うよ。


 でも……俺はたしかに、仙女の国にも鳥族の国にも人間の国にも行ける。姉さんが言ってた。そんなふうに移動できる鳥族は少ないのだと。特別な力があるものが、それぞれの国をつなぐ通路を作れば、それを使って互いの国を行き来できるけれど。


 どこにでも――どこにでも行ける? 良は考えた。そしてはっと頭に思い浮かぶものがあった。


「いいこと考えた!」


 良が明るく、大きな声を出した。蘭花が驚いて良を見つめる。


「いいこと? どうしたの急に」

「いいこと、だよ!」


 良は羽を広げた。踊り出したい気分だ。その代わりに良は翼をばたつかせた。




――――




 秀は憂鬱だった。良が来ないのだ。もう何日も。鳥族の国で助けてもらって以来会ってない。


 少し前にうちに来たのだ。そう、蘭花が言っていた。蘭花は会ったのだ。そして良がまた明日くるかもしれないと秀に教えてくれた。けれども良は来なかった。


 待っていたのに、と秀は思った。その日は一日、どこにも行かず、良を待っていたのに。なのに来なかった。いい加減なやつだなあと秀はやや腹立たしく思った。


 どうして来ないのだろう。蘭花には仙女の国での出来事を謝ったそうだ。ということはどこか、後ろめたい気持ちでもあるのだろうか。そんなこと気にしなくていいのに、と秀は思う。


 そりゃたしかに、捕まって牢屋に入れられたのは恐ろしかったさ。でもそれは良や翠玉さんたちのせいではないし、むしろ彼らは被害者だし、申し訳なく思う必要はないのだ。


 空は晴れ、世界は明るかった。けれども秀はつまらない気持ちで庭を歩いた。良のこと以外でも秀の気持ちを重たくさせるものがあった。船が帰ってこないのだ。


 父さんが貿易に出した船が帰ってこない。ひょっとしたらどこかで沈んだのかもしれない。そのため家中が暗い。航海に危険はつきものではあるけれど……。


 そのとき、門の辺りから騒がしい声が聞こえた。それが次第に近づいてくる。秀は興味を覚えて、音のするほうへ向かった。


 使用人たちが固まって、興奮気味に話をしている。そのうちの一人が秀に気がついて近寄ってきた。


「船が帰ってきたんですよ、坊ちゃん!」


 使用人の男が、明るい顔で秀に言った。秀は驚き、つられて笑顔になると、男は続けた。


「それが不思議な話でして、大量の鳥が助けてくれたっていうんです。船は嵐に会い、航路を外れてさまよっていた。そこに鳥たちが、空をうめつくさんばかりの鳥たちが来て、船に正しい道を教えてくれたっていうんです。そんなことってあるんですかねえ」


 鳥? 秀はどきっとした。鳥――良のことを思い出す。良が――まさか、この一件に関わってるの?




――――




 秀は使用人たちと別れて、庭のあちこちを歩いた。なんとなく――予感があった。どこに良がいるのではないかと。


 どこかの木の枝に止まっているのかもしれない。そう思って、秀は上を見ながら歩いた。と、ふと、視界の隅に青いものが見えた。緑の葉っぱの間に、ちらりと映る小さな青いもの。


 良だ。

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