4-2

 良は部屋の戸口に、凍ったように立ちすくんでいた。何か挨拶でもするべきかな。断りなく侵入してしまって、ごめんなさい、って?


「もう帰ってきたの?」


 曾祖母が優しい笑顔で言った。どうやら、一緒に暮らす曾孫の一人と勘違いしているようだ、と良は思った。黙って立っているのも居心地悪く、良は答えた。


「うん、そうだよ。帰ってきたんだ」


 帰ってきた――そうだ、俺は帰ってきたんだ。だってここが、俺の故郷なんだもの。故郷――本当にそうかな?


 俺はここで暮らしたことなんて一度もない。ずっと姉さんたちのところに、仙女の国にいたんだ。ここが故郷だと――そんなこと、言えるのだろうか。


 いとこたちの姿を思い出した。知らない歌を歌う、知らない子どもたち。俺はあの歌を歌えない。あの仲間には――入れない。


「そうなの」


 曾祖母がつぶやくように言った。顔は優しい笑顔のまま。ふと、良は曾祖母の姿が揺らめいていることに気づいた。輪郭が、不安定になっている。


 人間の姿が保てなくなっているんだ、と良は思った。姉さんから聞いたことがある。高齢の鳥族は人間の姿でいるのが難しくなる、と。自分の意思に関係なく、鳥の姿になってしまうのだ。


 考えてみれば、生まれたときも鳥の姿をしているのだ。こちらが、本来の姿なのかもしれない。


 曾祖母の輪郭が揺れる。体が縮み、人の姿は消え、椅子の上に一羽の鳥が座っていた。なめらかな灰色の羽を持つ、鳩に似た鳥だ。鳥は、黒くつぶらな瞳で、良を見た。


「おかえりなさい。いろんなことがあったでしょう?」

「うん……たくさん、いろんなことが……」


 鳥があまりにまっすぐ自分を見つめるので、良はたじろいだ。いろんなことが……たしかにいろんなことがあった。生まれてから、これまで。


「食事の用意はできていますよ。おあがりなさい。そしてゆっくり休むといいわ」

「……うん」


 鳥の声は穏やかで優しかった。良はなぜか泣きたくなった。ここにこのままいられないと、はっきりと思った。




――――




 良は鳥族の国を後にし、人間の国へ向かった。久々の人間の国だ。仙女の国での一件が会って以来、一度も訪れていない。あれから、秀にも蘭花にも会っていない。


 人間の国もまた、夕暮れ時だった。良は楊家の庭に出た。秀や蘭花に会いたいような気がしたが、同時に会いたくないような気もした。二人の姿を探す。見つからなくてもいいや、と思った。その時は、仙女の国に帰ろう。


 けれども見つけてしまった。庭の池のほとりにあるあずまやに蘭花が座っていたのだ。


 蘭花一人だった。夕日に照らされる池を眺めて、蘭花は浮かない顔をしていた。悩み事でもあるのだろうか。良は引き寄せられるようにして、そばに行った。


 人間の姿になり、あずまやに入る。蘭花が驚いて、立ち上がった。


「良!」


 蘭花がたちまち笑顔になった。「まあ、久しぶりね! どうして来なかったの? 忙しかった?」


「いや……」良は否定しながら、蘭花に近づいた。「そんなこともなかったんだけど、でもなんとなく機会を逸して……」


 真面目な顔をして、良は蘭花の近くに立った。そして蘭花を見つめて言った。


「悪いことをしたな」

「なんのこと?」


 蘭花が少し緊張しているのがわかる。良はなるべく穏やかに言った。


「仙女の国に連れていったこと。そのせいで、変なことに巻き込んでしまって、怖い思いまでさせて……」

「ああ、それならもう大丈夫よ。今は全く平気」

「そうなのか」


 蘭花は笑顔だった。けれどもその笑顔にはどこかぎこちないところがあった。良は蘭花を安心させたくて、一歩近づいた。と、蘭花がわずかに後ずさりするのがわかった。


 そういえば、秀が言ってたな。良ははたと思い出した。姉さんは内気で、特に男性が苦手だ、って。考えてみればここに二人きりで……蘭花にとってはあまりありがたくない状況なのかもしれない。


「鳥の姿のほうがいい?」


 良が尋ねると、蘭花はほっとした表情になった。


「え、ええ、あの、申し訳ないけど……」


 良は鳥の姿になった。蘭花の顔からたちまち緊張が消える。良はあずまやの長椅子に止まり、その横に蘭花も座った。蘭花は今ではすっかりくつろいでおり、愛おしそうに小さな青い鳥を、良を見ていた。


 中身は同じなんだけどなあと良は思った。


「あ、あの、ごめんなさいね……」蘭花の顔が気まずそうにくもった。「人間であるあなたが嫌なわけではなくて、そうではなくて……」


「うん、わかってるよ」


 良はあっさりとなんでもないことのように言った。蘭花の表情がほっとして、またくつろいだものになった。


「秀は今、出かけているのよ」蘭花は言った。「帰るのは夜になるんじゃないかしら。それまで待っとく? それともまた明日来る?」


「明日にしようかな」


 曖昧な気持ちで良は答えた。秀に会いたいのだろうか。会いたいとは思う。けれども少し――不安だ。


「秀が心配してたわ。あなたが姿を見せないから。何かあったんじゃないか、って言ってて……。でも元気そうでよかった」

「うん。俺は元気だよ」


 気持ちはちょっと不安定だけどね、と良は心の中でこっそり付け加えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る