2-6

 父親の着ているものも変わっていく。それはどこかの戦場で、将軍が着るような服だった。鋼の鎧が光る。顔も変わる。髭が伸び、目が大きくなってつりあがる。父親は口を開いた。その口の中にはとがった歯がぎっしり――。 


 秀は悲鳴をあげた。それに被さるようにどこかで銅鑼のような音がなった。




――――




 秀ははっと目を覚ました。心臓がどきどきいっている。自分がどこにいるか理解するまで、少し時間がかかった。


 翠玉さんちの寝台の上だ。姉さんが変な話をしたせいで、布団の中に入ったはいいが寝付けなかった。やっと眠りについたと思ったら、こんな悪夢を――。


 秀はしばらくじっとしていた。室内は暗いが、月の光が差し込んでいるので真っ暗ではない。闇に目がなれると、辺りの物もよりはっきり見えるようになった。仰向けの姿勢のまま、秀は考える。


 また眠ってしまおう。朝まではまだ遠そうだし。今度は悪夢を見なければよいけど……。


 けれども、じっと見ているうちに、ふと違和感に気づいた。室内の光景が――揺れている。


 めまいでも起こしているのかな、と秀は思った。それとも地震? いや、地震ではない。自分は揺れてないし、揺れる音も聞こえない。


 ただ、自分の目に写るものだけが、不安定にゆらゆらしている――。


 目をつぶった。恐怖心がどっと押し寄せて来る。布団を手で強くつかむ。見間違い……だよね、今日は疲れてるから……。


 また目を開けた。今度は異変がはっきりとわかった。部屋の隅にある箪笥が、壁ごとぐにゃりと歪んだのだ。


 秀は飛び起きた。と、同時に扉が開き、部屋に駆け込んでくるものがあった。蘭花だ。秀も寝台から急いでおりて、蘭花の元へ駆け寄った。


「姉さん!」


 秀は叫んで、姉弟は抱き合わんばかりに寄り添った。蘭花が震えている。


「秀、秀! おかしいのよ! この世界がおかしいの! それとも私がおかしいの!? さっきから周りの全てのものが頼りなくて――!」

「わかるよ、僕もなんだ。僕の目にも奇妙に見える」


 蘭花は無言で、秀の肩に顔を伏せた。もう何も見たくないようだ。秀は蘭花を抱きしめ、そして、自分も目を閉じたかったけれど、勇気を持って辺りを見回した。


 部屋が揺れている――。いや、実際には揺れていないのだ。ただ物の輪郭がおかしくなっているのだ。形を保てなくなっている。箪笥が、壁が、窓が、飾られた絵画が、どれもぐにゃりぐにゃりと動いている。


 秀は天井を見た。そして息を呑んだ。天井が溶けているのだ。つららのようなものが、天井からいくつも垂れ下がっている。そして、それは次第に数を増し、天井は形を保てなくなって、二人の上に落ちてくる――。




――――




 気づけば蘭花はいなくなっていた。部屋もなくなっていた。屋外に、庭にぽつねんと一人立っているのだ。


 ……夢を見ていたのだろうか。夢を見たまま、ふらふらと歩き出して、庭をさまよっていたところではっと目を覚ました。……いや、違うと思う。さっきの出来事は――夢ではないと思う。もっと生々しかった。


 それならばなぜ、自分はここにいるのだろう。蘭花はどこに行ってしまったのだろう。


 秀はしばらくの間、じっと立ちすくんでいた。風が吹き、すぐそばの木をざわざわと揺らす。ここは翠玉さんちの庭だ。昼間歩いた庭だ。今は夜で、月の光に照らされて、ずいぶん違ったように見える。でも同じ庭だ。


 月明かりで灰色にくすむ庭を秀は見回した。同じ庭――本当にそうかな……?


 木の葉が揺れる。それがぼんやりと輪郭をなくしていくように、秀の目には見えた。まただ! また――見ているものが形を変えようとしているの?


 木の葉の一枚一枚がくっついていく。くっついて、一つの大きな固まりになろうとしている……。秀が恐怖で動けずにいると、すぐ近くで、声がした。


「いたぞ! あの少年だ!」


 足音が近づいてくる。人が何人か近づいてくる。彼らは武装していた。どこかの兵士のようだ。


 秀は体を動かすことができなかった。怪しい人々はたちまち秀を取り囲み、その腕を捕まえた。




――――




 蘭花はうっすらと目を開けた。辺りは明るい。どうやらどこかの寝台の上に寝かされているようだ。


 ここはどこ? と蘭花は考えた。私はどうしてここに――そうだ、仙女の国に行ったんだった。


 良とそのお姉さんたちが暮らす国。私と秀はそこに行って、歓迎されて、でもそこはおかしな国で――そう、おかしな国だったわ。私は恐ろしくなって、秀は大丈夫だと言ったのだけど、けれども夜、怖いことが起こって――……。


 部屋が溶けて消えてなくなるのかと思った。秀に抱きついたけど、気が遠くなって、それから――。そこで記憶がとぎれてる。あれは全部夢だったのかしら。


「気がついたのか」


 すぐ近くでほっとした声がした。見上げると、寝台のそばに良がいた。蘭花はゆっくりとまばたきをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る