2-5

「……私たちの家には、今、私たちの偽物がいるのよ」


 怯えた声で、蘭花が言った。秀はそっけなく答えた。


「そうらしいね」

「私たちは……無事家に帰れるのかしら。家に帰っても、偽物たちが私たちの居場所を乗っ取ってるんじゃないかしら」

「姉さん……」


 秀は呆れてしまった。蘭花は泣き出さんばかりに言った。


「お父さまもお母さまも、偽物のほうを本物だと思うの。私たちがこちらが本物よって言ってもちっとも信じてくれない――」

「あのさあ……」


 秀は一言言いたかった。けれどもここで蘭花に泣き出されても困る。黙っていると、蘭花はさらに話を続けた。


「私……こんな話を読んだことがあるわ。ここみたいなね、不思議の世界へ行くの。で、しばらく楽しんだあと故郷に帰るのだけど、ずいぶん時間が経ってるの。知ってる人はみな死んで、自分たちの子孫にあたる人々が暮らしているの。……ねえ、私たちもそんなことにならないかしら!?」


 秀はいらいらしてきた。姉さんはどうして、悪いことばかり考えるのだろう。


「そんなことにはならないよ」秀はぶっきらぼうに言った。「それは作り話」


「そもそもなぜ……」蘭花は秀の言葉が耳に入っていないようだった。「なぜ、良や翠玉さんたちはここに私たちを連れて来たの? それには何か、魂胆があって……」


「姉さん」秀はぴしりと言った。「親切にしてくれた人たちを疑うのはやめようよ」


「秀……」蘭花が哀れむように秀を見た。「あなたは浮かれてるのよ……」


「浮かれてる?」

「翠玉さんと浮かれて踊ったじゃない……」


 秀は明らかに嫌な気持ちになった。僕のことを馬鹿でおろかなやつと思っているのだろうか。美人にうつつを抜かして、周りの現状をきちんと認識できなくなっている、そういうことをこの姉は言いたいのだろうか。


「あのさあ、姉さん!」秀は思わず大きな声を出した。「そりゃ、ここはちょっと変わった世界で、姉さんが心配するのはわかるよ! でも良や翠玉さんはさ、翠玉さんは今日会ったばっかりでどんな人かはよく知らないけど、でも良は――僕の友達なんだよ!」


 はっきりと秀は言った。けれどもちらりと、不安も走った。友達? まあたしかに友達ではあるよ。でも――長い付き合いではない。出会ったのはつい最近。いいやつだとは思う。思うけど――。


 本当に、そうかな?


「あの……ごめんなさいね」


 秀の大きな声に驚いたのか、蘭花がおろおろして言った。秀もはっと、我に返った。


「僕もごめんね」

「そうね――私も良を疑いたくない。あの子は私たちが助けたかわいい青い小鳥だもの。悪いことをしたりはしない。そう思う」

「うん」


 二人とも気まずく黙り、そして、秀が無理に笑顔を作って言った。


「明日には帰れるよ。そしてまた元通りの日々が始まる」

「そうね」


 蘭花もぎこちなく微笑んだ。


 おやすみなさい、と言って、蘭花は自分の部屋に帰っていった。秀だけが残された。


 一人になって、秀は考えた。同じ顔の若い美人しかいない世界。こちらに来てから口数の少なくなった良。どうして翠玉たちの両親が見当たらないのだろう。どうしてそのことに一言も触れないのだろう。どうして良の卵は流されたのだろう。どうして――。


 疑問が頭の中を駆け巡る。秀はもう眠ることにした。




――――




 秀は夢を見ていた。目の前に薄い緑色のものがひらひらしている。これは翠玉さんの服だよ、と秀は思った。踊ってるんだよ。それで服がひらめいて……。


 けれども違うようだった。服だと、衣だと思っていたものがするすると変化していく。どうやらそれは服ではなく、川のようだった。緑を帯びた青に輝く川。そんなに大きな川ではない。小川だ。


 僕たちが舟で渡った小川だ。と、秀は思った。自分はそれを高い位置で見下ろしている。どうやら空を飛んでいるようだ。小川の上を飛んでいく。


 小川の左右は薄い紅色の花で覆われている。桃の花。なんて美しい、花の盛り。それがどこまでも続いていく。どこまでも続いて……あ、家が見えてきた。


 自分の家だ。どうやら戻ってきたようだ。


 秀は庭に降り立った。とたんに悲鳴が上がった。女中の一人が目を丸くしてこちらを見ている。その驚きように秀も驚いていると、腕を引っ張るものがあった。


 見ると、父親だ。自分の父親が恐ろしい顔をして、腕を引っ張っている。


「出るのだ」父親は顔と同じく恐ろしい声で言った。「ここから出ろ」


「どうして、お父さん!」秀は言った。「僕はここの家の子だよ!」


「違う!」父親は言い放つ。「お前は偽物だ」


「偽物……」


 秀は言葉を失った。翠玉さんが、この家に僕らの偽物を置いていったと言っていた。お父さんは、偽物のほうを本物だと思っているんだ!


「違うよ!」秀は叫んだ。「僕が本物だよ! 僕が本物で偽物はあちら――」


「何を言うか」父親の輪郭がゆがんだ。そして父親の体がみるみる大きくなっていった。秀は恐怖に固まって、それを見た。


「何を言うのだ――」今や父親は二倍ほどの大きさに膨らんでおり、そしてさらに大きくなっていった。「お前が――お前こそが偽物――……」

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