2. 仙女の国

2-1

 秀たち四人は庭へ出た。そこには池がある。


 静かな初夏の午後で、周囲を石で囲まれた池はたいへん穏やかで、水面には日の光がきらめいていた。


 翠玉が先頭に立って歩き、池のほとりで足を止める。池をざっと眺めた後、三人を振り返り、微笑んだ。


 茶目っ気のある微笑みだった。そうして翠玉は顔を池へと向ける。秀も蘭花もつられて池を見た。すると……穏やかだった水面にさわさわと小さな波が立った。


 二人が黙って見つめていると、波は次第に大きくなり、池の上にぼんやりとしたものが浮かび上がった。ぼんやりとした、煙の集まりのようなものは少しずつ池の表に広がり、そして輪郭をあらわにし始めた。数分も経たず、それは小舟の形となった。


「これに乗って仙界に行きましょう」


 翠玉がうながした。良がさっそく飛び乗る。秀は声も出せず驚いていたけれど、導かれるように良の後に続き、翠玉は蘭花の手を取っておびえる彼女をはげますようにそっと乗り込んだ。


 四人が乗るとたちまち小舟は動き出した。ゆっくりと、すべるように。秀は不思議だった。漕いでる人もいなければ、水の流れもないのだ。なのに舟は動いている。


 小さな池なので、舟はすぐに向こう岸につきそうなものなのに、そうはならなかった。池は広がっていた。いつもよりずっと。そして、外へと繋がっていた。池をめぐる石の一部がなくなっていて、そこから川のような水路が続いていた。舟はそちらへと入って行った。


 秀のそばで、蘭花のつぶやきが聞こえた。


「……うちの池って、こんなだったかしら……」

「たぶん、違うと思うよ」


 機械的に秀は答えていた。翠玉がくすくす笑っている。




――――




 舟が進んでいく水路は、次第に幅が広がっていき、今ではすっかり川となっていた。


 といっても広い川ではない。深さはどれくらいだろうか、秀は水の底に目をこらした。水はたいへん清らかで澄んでおり、もし水深が浅いのならば、川底まで楽に見えるのではないかと思われた。けれども、底は見えなかった。


 美しいわずかに光るもやのようなものが、水の中に存在しているのだ。それはどこまでも続き、川一面に広がっているのではないかと思われた。


 秀は水の中を見るのをやめ、今度は周囲を見回した。今や景色がすっかり変わっていた。庭はどこにもなくなっていた。


 川の左右に広がるのは山だ。山はどこまでも続いている。木々の葉っぱはまだ若くつやつやとしていて目に鮮やかだ。どこかで鳥の鳴き声が聞こえたような気がした。


「鹿だわ」


 同じく周囲を見ていた蘭花が、小さく言った。秀は蘭花の視線の先を見た。


「どこ?」


 けれども何も見えなかった。蘭花が言った。


「木々の間にぼんやりと姿が見えたの。でもたちまちいなくなっちゃった……」

「この山にはいろんな生き物がいるのですよ」


 そう、翠玉が言った。


 川は美しく、山も美しく、そしてまた空も同じように美しかった。青い、雲のない空が頭上に広がっていた。風が穏やかに四人の間を通り抜け、秀はたいそう心地好かった。暑くもなければ寒くもない。


 良は舟の先頭に座っており、そして良もまた、楽しげだった。何も言わず、この心地よさを味わっているようだった。


 秀は、舟の行く手へと目を向けた。なにやら薄い桃色のものが左右の山を彩っていた。あれは、何かの花だな、と思った。


 舟がそちらへまっすぐ向かっていく。「桃の花だわ!」と蘭花が声をあげた。


 たしかにそのようだった。たちまち、川の周りが一面の桃の花につつまれた。山にたくさんの桃の木があり、それらが満開の花をつけている。


 ひらひらと舞い落ちる花びらもあった。それらのいくつかが川に落ちた。いまや、川の表面にはたくさんの花びらが、ときには花そのものが浮かんでいた。蘭花が歓声をあげる。


「なんて素敵、なんて綺麗なの」


 蘭花は小舟から身を乗り出して、浮かんでいる花びらや花をすくった。舟は、浮かぶ花たちを押し分けるように進んだ。


 そのうち、舟の動きがゆっくりとしたものになり、岸へと近づいていった。そして、岸に接近して止まった。翠玉は言った。


「ここからは歩いて行きましょう」




――――




 四人は舟を降りた。山の中に細い道があり、翠玉が先頭となりそこへ入っていった。続いて蘭花、秀、しんがりは良。


 道はたちまちつきた。その先には大きな洞穴がある。翠玉がその中へ足を踏み入れようとすると、蘭花が怖じけづいたように言った。


「ちょっと怖いわ」

「では、手をつなぎましょうか」


 翠玉が振り返り、蘭花に手をさしのべる。それを取って二人は洞穴の中に入っていく。秀も恐ろしかったけれど、でもだからといって、良と手をつなぐのはどうかと思われた。なので、平気なふりをして入っていた。


 洞穴の中は真っ暗ではなかった。どこから光が入っているのかわからないが、うすぼんやりと明るいのだ。洞穴の道もまた、そんなに長いものではなかった。行く手にはっきりとした光が見えてきた。歩くにつれてそれは大きくなる。洞穴の外へと通じる、出口の光だ。

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