第36話



 開け放たれた戸板の先―――手入れの行き届いた庭を日差しが明るく照らす。穏やかなその空気と打って変わって、道場の中は熱気に溢れていた。

 ただし、身体を動かしているのは向かい合っている二人のみ。他、三十四名は二人の周りを取り囲んでいる。

 道場の主である師範とその脇に控える師範代以外は、皆疲労の色が見えていた。しかしその彼らを一人で相手している小さな背中は、汗でぐっしょり濡れながらもピンと伸びていた。

 両手に短い木剣を持つ華奢なその者の名は、ミオ=シロモリ。挑むは百人組手。

 三巡目に入り、もはや誰もが本気だった。



 シロモリの要請だから、師範がシロモリの前当主と懇意にしていたから、そもそもこの道場がシロモリの武術から派生したメイスン流剣術を教えているからこそ、こんなバカげた催しが行われるのだと、師範代以下の誰もが思っていた。若くして「長刀斬鬼」の異名も囁かれるシロモリの新当主がとんだ端女だったと世間で囁かれてかなりの日数が経つが、噂が七十五日で消えることはなかった。今やその評判は地に落ちたと言えるが、だから妹が引っ張り出されたのだと思っていた。要するに百人抜き達成で汚名を返上しようというわけで、そのための茶番に駆り出されたのだと考えていた。

 実際訪れた「妹」の姿を見た瞬間、それは確信に変わった。華奢な少女……というより、体格は子供である。長身のアケミと比べれば差は歴然で、百人抜きどころか、大人が相手するなど論外だ。さすがに皆「これはない」と半ば失笑していたが、師範はピクリとも眉を動かさず「始めよ」と言う。

 三十三人が三度相手をし、最後は師範代が務めるとのことだったが、いくら茶番でもこれはないのではないか、看板に泥を塗るだけではないかと皆が渋る表情を見せ始めた時、「妹」がざわつく空気を切り裂く様に明瞭に言った。

「私は姉と真剣で勝負したことがあります」

 ――何を言っているのかよくわからなかった、というのがメイスン門下生の本音だ。アケミが常に携えているあの長刀を、抜き身でないにしても見たことがある者は多い。おそろしく長いあの刃を噂で聞くように猛然と振るえるなら、どれほどの脅威か。そして向かい合うとして、この小さな「妹」に勝算があるだろうか? 誰が考えてもノーだ。そんなのはありえない……「勝負」したのが本当だとしても、本物の刀を持たせてもらって向かい合った、その程度のことだろう。誇大表現にもほどがあると、目に見えて嘲笑う者もいた。

 ともあれ、一本目。一人目のミケロは、門下生の中では中の上の実力の持ち主。ミオの技能の程度を測る役だ。

(…つっても、どうすりゃいいんだよ…)

 普通の長さの木剣をメイスン流―――大元のシロモリでもスタンダートである正眼に構える一方、ミオはその体格にしっくりくる短刀の形状の木剣を片手に一本ずつ…。

 ミケロは胸の内でため息を吐いた。

 二刀使えればそりゃ強い。一方で相手の剣を受け止め、もう一方で相手を攻撃できる……片手で相手の剣を受け止める腕力があればの話だが。しかしどう見ても目の前の少女にそれはない……両手で握った剣で防いだとしても吹き飛ばされるんじゃないか? あー、どのくらいの力で打ち込めば―――……

「――…お?」

 ミケロは息を止めた。ミオの木剣がミケロの喉元に突きつけられている。ミケロは――いや、周りを囲む全員が目を白黒させる。

 今、何があったのだ? いつの間にかミオがミケロの間合いの内側に踏み込んでいる。ミオの脚で三歩分の距離はあったはずだ。どのタイミングで動いたのかも全くわからなかった。ミケロの背中をつうっと冷たい汗が流れ落ちる…。

「胸をお借りします。皆様もどうか御遠慮なきようお願いいたします」

 ミオはさらに一歩踏み込んでミケロの腕を絡み取ると、ミケロを投げ飛ばした。両手の剣を握ったまま、である。

 甘く見ていた―――メイスン門下生はこの時、その程度にしか考えていなかった。一巡目、すべての門下生はミオに圧倒されたが、それでもまだ油断があったと思い込んでいた。

 だが二巡目―――本気で木剣を振り始めた門下生たちは焦った。全く剣が当たらない。その上ミオはあえて相手の間合いに踏み込み、紙一重で避ける。完全に見切られているのだ。しかし常人離れした動体視力と反射神経を持っているとしても、迫りくる剣の恐怖は別のはずだ。実際、避けるミオの髪や道着を何度も掠めている。それでも顔色変えず、瞬き一つしない。そこでまた思い出す―――長刀斬鬼と真剣で勝負したと明かしたことを。真剣でこんな刃のやり取りをしたのか? それとも、長刀斬鬼の太刀筋に比べれば自分たちの剣技など取るに足らないと…? 



 二巡目もミオに黒星なし。すでに二時間前とは違う。道場は私語こそないが熱気が渦巻き、歯軋りすら聞こえてくる。

 七十五人目――すなわち三巡目九番手であるジェイクは、木剣をガムシャラに振り続けた。ミオは道場の門弟たち以上に体力も精神力も削り取られているはずだが、疲労の色は見えても目から光が消えることはない。大上段からの渾身の打ち下ろしをその小さな手が握る短剣で受け止めすらするのだ。ジェイクは歯軋りし、全力で右からの胴切りを繰り出した。肘からやや上の高さの胴切りは受け止めにくいポイントの一つだ。ミオの左側から迫る一閃は左腕をへし折り、下手をすれば肋骨までダメージを及ぼす威力だったはずだが―――勢いよく空を斬るのみ。ミオは高跳びをする要領で迫る木剣をするりと飛び越えたのだ。それも身体に触れるか触れないか、木剣にするりと撫でられるようなギリギリの高さで。まるで猫のごときしなやかな動きに門下生たちからも「おお!」と声が上がる。そしてジェイクは驚く間もなく首に木剣の先端を当てられていた。

「…ありがとうございました」

 ミオは剣を下ろし、初期位置に戻っていく……その背中に、ジェイクの怒りが爆発した!

「くそがああァあ!!」

 ジェイクは獰猛な肉食獣の如くミオに飛びかかり、背後から木剣で殴りつけた。振り向きざまに力任せの一撃を受け、少女の身体は大きく吹き飛んで床に転がる。

 これにはさすがの門下生たちも目を剥き、すぐさまジェイクを取り押さえる。

「貴様っ…何をやっているかぁ!」

 師範代がジェイクの頬を叩くが、ジェイクの昂ぶりは抑えられなかった。

「しかし…っ!! 『あの女』に看板を奪われ、しかもこんな年端もいかない妹にまでいいようにされてっ……自分は我慢がなりません!!」

 それを聞いたミオは、汗に濡れた床板に頬を付けて、思った。まただ、と。







 

 ……数日前、ミオは一人で校舎を出ていた。

 ミオの通う女学校は、貴族の子女や大商人の娘が多く通う。エレステルには学校が五つあり、その内の三つが首都グロニアに構えている。人口に対して数が少ないのは、学校が一部の上級階層専用の施設だからである。一般的に、平民は無数にある私塾で読み書きを覚える場合が多い。つまり、義務教育の制度は存在しない。

 一見すると国民の識字率は低いようにも思えるが、そんなことはない。戦士が誇りであるこの国では、軍人こそが憧れの道。しかし単純に腕っ節が強いだけでは兵士になれない。理由は簡単、指令書が読めない・報告書が書けないと採用されないからである。よって兵士はある程度の教養がなければならず、子供は自ずと学ぼうとする。その需要に対し、教育を施す側の人間の多くが元軍人なのである。塾の講師や家庭教師は退役軍人の再就職先の一つとして人気があるのだ。

 では、「学校」は何のためにあるのか。

 学校はもちろん高度な教育による人材育成、学問の研究・知識の集積機関としての働きもあるのだが、それとは別に文官の勢力強化を狙う背景もある。エレステルでは軍の発言力が強く、文官の見解より軍人の主張が優先されがちである。それは組織を構成する数の差もあるが、貴族出身の人間が多い文官に対し、平民出身者が多数を占める武官は現場意見として声が大きいのだ。これに対抗するため、若いうちから貴族間での連帯感を高める目的で学校が建設されているのだ。

 ミオの通う女学校もこれに当たるのだが、シロモリ家は軍職ではないものの武官である。にもかかわらず入学することになったのは、偏に母・ロマリーの強い薦めがあったからだ。ロマリーは地方の有力貴族の令嬢として大切に育てられ、恋愛の末ガンジョウと結婚した。しかしシロモリ家は首都のグロニアに居を構えるとはいえ、その生活はロマリーの想像したものとはまるで違っていた。日に日に不満が募るロマリーだったが、女児が生まれて溺愛する。長女のアケミである。ところがアケミは幼くして剣に目覚め、夢中になってしまう。そして王女の腕を折るという大事件を起こし、ついにロマリーのアケミに対する愛は冷めた。

 代わって愛情の対象はミオに移る。アケミのことがあってミオが剣を握ることは手習い程度とされ、幼いうちからミオは女学校に入学させられた。ミオ自身は姉や父に倣ってもっと剣を振りたい気持ちもあったが、学校の勉強もそれはそれで楽しかった。

 ただし、馴染めたかといえばそうではない。やはりシロモリの娘ということで、多少敬遠されていた。もちろんそれは学友の親たちによる刷り込みが原因で、子供には関係ないはずなのだが、ミオには友達と呼べる人間はあまりできなかった。それでもミオは品行方正で、学校生活に不満はなかったのである。

 だが―――ある時、ミオは初めて剣の道を渇望する。バレーナ王女の父・ヴァルメア王が病気で倒れた時だ。

 バレーナとは幼馴染みと言っていい仲である。姉同様活発だったが、姉以上に自分を可愛がってくれるバレーナがミオは好きだった。そんなバレーナは、父王が亡くなれば天涯孤独の身になるというのだ。自分に王の孤独というものはわからない……ただ、側で支えになりたいと思った。幸い、自分は貴族の家に生まれた。王に近い立場でお仕えすることもできるはずだ。

 この時、ミオにはまだ明確に当主になるという考えはなかったが、シロモリが武人であると学校で嫌というほど知らされていたから、剣の道こそ出世する最短の道だと理解していた。この時姉は父と仲違いして軍に入隊していた。父から教えを受ける絶好の機会だったのである。しかし程なくして軍から連れ戻された姉は、あっという間に当主に指名されてしまう。これには納得できなかった。軍から戻ったばかりの姉は酷かったからだ。フラフラ出かけては酒を飲んで帰ってくる。朝方帰ってくることも一度や二度じゃなく、近所でも素行不良が噂になっていた。

 いくら長女と言っても……いや、長女で親友だからこそ、バレーナ様の助けになろうと考えないのか―――苛立ちはついに爆発して、怒りに変わった。

 そして申し込んだ決闘―――。真剣での勝負は口から咄嗟に出てしまったこともあったが、姉に負けない覚悟を示すためにも必要だった。それに、自分にはシロモリの名に違わぬ剣の素養があると自覚していたし、訓練は毎日欠かさず積んでいた。父から習い、自分の体格の不利を補うために研究もしていた。いくら天才と呼ばれていたといっても、軍に入っていたといっても、今の姉に引けを取るはずはない―――本気でそう思っていたのだ。

 結果は、圧倒的だった。圧倒的敗北……全く歯が立たなかった。体格の差以上に、熟達の差以上に、才能の差を感じた―――。それから先はどれだけ修行しても姉の凄まじさを思い知るのだ。鬼才―――それこそ姉にふさわしい。常人の尺度では測れない才格の持ち主。もちろん、現時点では姉を超える達人はまだまだいるだろう。だがそれもすぐに飛び越えてしまうに違いない。悔しいが、認めるしかない。姉は凄い。本当に、凄い……。

 そして姉は「長刀斬鬼」の異名を取り、世間でも話題になりっていった。その余波を受けて学校での自分の評価も変わりつつあった――――が、そこで件のスキャンダルが発覚する。

 周囲の評価は一変して、シロモリ家は衆目の的となり、母はノイローゼになってしまう。ミオも学校で孤立しつつあったのだが――――下校時、校舎を出たら、門の前に自分を待っている人がいた。

 若い女の人のようだが、大きい……姉やバレーナ様もかなり長身だが、この人はそこらの成人男性よりも背が高い。そしてそれに比例してグラマラスなプロポーション。自分とは正反対の極致にいる人だ。

 ただし、その全身はしなやかな筋肉で引き絞られているのが服の上からでもわかる。体幹がものすごく鍛えられているのが立ち姿から見てとれる。この人は間違いなく、戦士―――そう確信して見上げて、

「あ、あの……アケミ隊長の、妹さん…?」

「は、はい…?」

 ミオは思わず聞き返してしまった。声が小さいわけではないのだが、おどおどしているというか……まさか人見知りだろうか。自分と身長差が三十センチ以上あるのに、どこか弱々しくて、顔つきもなんというか……女学校の生徒みたいだ。ひどくアンバランス。

 この人は今、「アケミ隊長」と言った。なら、姉の部下なのか。部下なんていたのか、あの姉に―――。

「あ、えっと……マユラといいます。いつも、お姉さんにはお世話になっています…」

「ご丁寧にどうも…」

 これだけ大きな人に頭を下げられることもそうない。なんだか悪い気がする……。

 ……かいつまんで言うと、世間で噂されている姉のスキャンダルについて説明しにきてくれたらしい。裏切った人を姉が本当に信頼していたこと、後輩が殺されて責任を取るために自らその人を手にかけたこと……。初めて聞くことばかりだった。噂では「色仕掛けで騙された」ところしか流れていない。姉は何も話してくれない……。

「…二人が仲が良かったのは知っているけど、そんな関係だと思わなかったから……今の状況は、結果的に私が背中を押してしまったのかもしれない……。私から見て……私に、何がわかるわけでもない、けど……裏切った人は本気でアケミ隊長のことを愛していて……何か理由があったと思う……根拠はない、けど…」

「……そうですか」

 正直、頭に入ってこない。理解できない。

 いつの間にか姉は愛を知るほどに大人になっていた。自分とは違う次元の人間になっていた。

「妹さんも周りから白い目で見られて辛いかもしれない、けど……アケミ隊長は……お姉さんは悪くないし、一番傷付いていると思うから……きつく当たらないでほしいというか、嫌いにならないであげて…」

そんな風に言われても、慰めの言葉も浮かばない。何もかも遠い世界の出来事のようだ。

 姉は失敗した。欲に溺れていたのも事実。同情はできないし擁護するつもりもない。ただ―――…



 



「――…あの女に看板を奪われ、しかもこんな年端もいかない妹にまでこんないいようにされてっ……自分は我慢がなりません―――…」

 背後で若い門下生が自分に浴びせかけるように叫ぶのが聞こえる…。

 まただ……また、姉か…。

 このメイスン道場も姉が道場破りを仕掛けた一つだ。想像するまでもない、剣士として積み上げてきたものが粉々に砕かれる敗北感を味わったのだろう。妹に対して恨みを晴らそうと禍根を残すほどに。だが、それでもシロモリを襲名する前のことだ。刀を手にした今の姉の前では、もはや彼らなど相手にならない……。

「…おい、大丈夫か!?」

「………」

 門下生が肩を叩こうと伸ばしてきた手を制してミオは立ち上がる。右頬はミミズ腫れし、わずかだが出血している……それだけだった。剣の軌道に逆らわずに自ら飛んで、避けていたのだ。その驚異的な反応速度を知って門下生たちは驚愕するが、それでも相手は年端もいかない少女である。顔を傷つけたことに少なからず罪悪感を覚えたのはジェイクだけではない。

 だが―――。

「…油断していた私が悪いのです。シロモリに名を連ねる者として恥ずべきことです」

 姉なら、こうはならなかった。反撃して返り討ちにしていたかもしれない。

 ――姉は壁。自分より先にいて、どんなときもとてつもなく大きい壁だ。それだけは、自慢するほどに認めなければならない。

 姉のレベルに辿り着くためには、自分は一歩ずつ進むしかない。そのための百人組手だ。こうなることも予感していた………それも望むところなのだ。

「次、お願いします…!」

「「「………!」」」

 堂々と剣を構えるミオを前に、門下生たちは同じ思いを抱いていた。

 なぜ、彼女がシロモリではないのだろうと―――。




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