第35話
アケミが目を覚ましたのは、療養所のベッドの上だった。
最初に目にした人物はロナである。身体を起こそうとすると右腕と左肩、掌に痛みが奔り、眩暈と吐き気が酷い……すぐにロナに寝かされた。
「あれから五日経っています」
唐突に言われても、すぐには何のことか理解できなかった。声を出そうと口を開くと、喉が痛い…。
「…………のどがかわいた…」
掠れた声しか出ない。ロナがベッド脇の給水器を取って口元まで運んでくれる。
「……出血がひどく、かなり危険な状態だったそうです。両腕に傷を負っていますからしばらく不自由するかと思いますが、後のことは心配せず、治療に専念して下さい」
後のこと―――。
「……どうなった…?」
「何がです…?」
「……全部」
「…もう少し回復してから、お話しましょう」
「ロナ――…っ」
ぐっと身体を起こそうと、今度は足と腹に力を入れる。ここは無傷のはずだが、筋肉がガチガチに固まっていて、重りを付けられているように動かない。慌てたロナにまた抑え込まれてしまう。
「無理をしないでください、傷口が開いたらどうするんです…! 時期が来たらちゃんとお話しますから!」
「今、言ってくれないと、落ち着いて休めない……」
ロナはしばらく渋ったが、ぐるぐる包帯の巻かれた腕を伸ばそうとするアケミに観念して話し始めた。
「…ナムド中隊長の報告では、足取りを追跡していた最中にクリスチーナとアケミ様が戦闘中の現場に出くわし、助太刀する間もなく決着したとのことです。アケミ様はスパイを幇助していた容疑を一応は晴らしたことになりますが、一方で、その……女同士の愛憎劇という形で、虚実織り交ぜたスキャンダラスな噂が一般人のレベルにまで広がっています。この影響で、私たちの部隊を正式に組織化するアケミ様の発案は評議院で反対意見が多数を占めています。ですがバレーナ様は強行してでも部隊を押し上げるお考えのようです」
「…………悪い……迷惑をかけて…」
「いえ……悪いのはアケミ様ではありませんし、むしろ………どうお慰めの言葉をかければいいのかわかりません…」
「クーラさん……クリスチーナは……」
「……もう埋葬されました」
「そうか……」
そうだろうなとは思っていた。だが、いざ確認したら、込み上げてくるものが――……あるのかと思ったが、瞳は乾いたままだった。嗚咽も、胸の痛みもない。ただ、首から下が空っぽになったように力が入らず、重く沈んでいくだけだ……。
ケガは深かったが、幸い負傷は腕のみのため早くに自宅に戻ることができた。
広い屋敷に戻ると、誰もいなかった。
父・ガンジョウは自分の代わりにシロモリの務めへ。
妹のミオは学校へ。
母は………家を出て実家に引き籠ってしまっていた。後から聞いた話では、あたしのスキャンダルに耐えられなかったらしい。「嫁入り前の娘が女と愛欲に溺れて騙された」なんて近所で囁かれれば、深窓の令嬢であった母さまでなくとも鬱になるに決まっている…。親父殿もさすがに止めることができず、心が休まるまでということで、家政婦のシャロンさんが付き添っていった。
静寂に包まれた屋敷の中で、窓から差し込む陽光に照らされながら自室のベッドに寝転がった。一番深い左肩の傷が完治するまでは一カ月以上かかるだろう。戦士にとって一カ月の休養はかなり響く。身体の筋肉は落ち、神経と感覚は鈍る。日々の訓練ほど大事なものはない。
国境警備から戻った兵士が長い休暇期間中に堕落し、戦士としての要件を満たせず、除隊処分を言い渡される者も毎年いるらしい。もちろん大隊所属の兵士は国境警備のみが任務ではないが、砦での長期任務の反動は大きく、どうしてもだらけてしまうものだ。それゆえ、自覚のあるものはそれぞれの大隊の養成所に顔を出す。そこで後輩にちょっかいを出しつつ、反発される勢いを借りて自身も鍛える―――これが伝統でもある。毎日剣を振る。これが肝要なのだ。
それがわかっていながら、アケミはしばらく剣を握ることを止めることにした。無理をすれば完治まで長引く、ということもある。しかしそれ以上に傷跡を残さないようにすることが重要だと考えた。
この先、ドレスを着る機会も増えていくだろう。そんなときに隠さなければならない傷を持っていると場の空気を重くしてしまうこともある。女は美しくあり続けなければならない―――
……クーラさんの教えだ…。
肌の手入れ、化粧のコツ、香水の選び方も教えてもらった。たった一年足らず……それだけで、自分にクリスチーナの影が染みついている。一生消えることはないのだろう……。
そして家族三人での生活が始まった。
腕が使えないアケミの代わりに親父殿とミオが最低限の家事をこなしてくれた。親父殿は元より饒舌ではないが、ミオは決闘以来話しかけてこない。食事は三人顔を合わせるが、黙々と過ぎていく。ただ、飯はおいしかった。
「…美味いな」
ぼそりと洩らすと親父殿の箸先がピクリと動く。
「…久方ぶりで口に合わぬかとも思ったが、それならよい。ロマリーは……母は育ちがよい故、自ら料理することはあまりないが、シロモリは元来清貧を尊ぶ。ワシも先代に仕込まれた。これも機会かもしれん、お前たちにも料理を教えるか………剣だけが道でもあるまい……」
暗に自分の事を言われているのかと思った。いや、そうだったのだろう。親父は視線を落とし、それ以上口を開かなかった。隣にいたミオは「ごちそうさまでした」と手を合わせ、さっさと席を立って行った。
それから二カ月。
左肩に薄く傷痕が残ったが、腕は全快した。やや筋肉の衰えた腕は限界を超えないギリギリの加減で鍛え直し、強化し続けた体幹と併せてむしろ剣撃の精度は増した。剣を握らず肉体強化に注力したことで、むしろ剣士として一枚剥けた力の充実さを感じた。
しかし―――木剣から真剣に持ち替えた時、異変が起きた。肌は泡立ち、指先の震えが止まらない。汗で背中が冷たくなり、鼻腔はどこにもないはずの血の匂いを感じる……。
そして死刑囚を処刑するとき、すべてが噴き出した。
刀を振り下ろす瞬間、クリスチーナの影が重なり、囁いたのだ。
「うらぎりもの」、と。
それ以来、親父殿によって剣を振ることを禁じられた。
仕方のないことだと自分でもわかっていた……とても冷静ではない。一番凶器を振るってはいけない精神状態だ。
しかし、それでも長刀を取り上げられるのは断固拒否した。刀はシロモリの証である。シロモリでなくなれば、バレーナの側に立つことは果てしなく難しくなる。そうなれば……なんのためにクーラさんを斬ったのか、わからなくなってしまう……。
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