第32話
―――その霧の中でアケミはジャイオンの蹄の音を聞き取っていた。ただし、アケミが立っているのはジラーが見当を付けた位置から十五メートル程後方である。
ジラーがアケミだと思い込んだ、アケミの前方に屹立するその「影」は、アケミの背丈に匹敵する長剣……いや、大剣だ。
いつもの長刀が細い枝に見えてしまうその大剣は、幅五十センチに迫る刀身を持つ片刃の直刀で、まるで鉄板。鉄の塊から削り出したような武骨なシルエットである。鞘などなく、地面に真っ直ぐ突き立てられ、身の丈三メートルを超える巨人でなければ振り回すどころか引き抜くこともできないだろう。
それを―――アケミは使うつもりなのだ。
ジャイオンの気配を感じ取った瞬間に長刀を素早く地面に刺し、豹のような瞬発力で駆けだしたアケミは猛スピードのまま大剣に飛び付き、太いグリップを軸にぐるんぐるんと身体を伸ばして回転する。遠心力を受けた大剣はみしりとその身を軋ませ、三秒後には地面をひび割り、ぐらりと傾きながらアケミの勢いに追従する。
抜ける――その絶妙のタイミングでアケミは地面に足を付くと、今度は自分を軸に掴んだ大剣を回転させる。さながら巨大な鉄の風車のように、速度を一回転ごとに倍化しながら、白い霧を巻き込んでいく……!
「死ィにやがれえぇ――!」
何をトチ狂ったのか、勝利を確信したジラーの叫び声が耳に飛び込んでくる。
―――バカが、どこまで来ているか丸わかりだ!
「オ、オ、オ、オオオォ―――だぁっ!!」
全筋力をもって放たれた大剣は大回転、風を切り裂きながら滑空する。巨大な刃が唸りを上げて霧の中から飛び出したのはちょうどジラーが攻撃に移ろうと手綱を握り締めた瞬間であり(ジラーがわざわざ叫んだのもアケミを身構えさせるためだった)、先手を打つつもりだったジラーは対応どころか瞬きすらできずに―――
ジャイオンの首を撥ね飛ばし、
ジラーの胴を横に切り裂き、
超重量の肉塊が地面に激突する音と金属の塊が地面を打つ音が響き渡る―――
バランスを崩した一人と一頭は、アケミの目の前で文字通り四散して脇を通り過ぎ、坂の下へと転げ落ちていく……。
「………はあぁ……」
音が止み、再び訪れた朝の静寂の中、深く息を吐きだす…。呼吸は落ち着いたものの、心臓は激しく脈打ち、発汗は止まらない…。
「……おみごとでした」
背後から現れたのはナムド中隊長、そしてウェルバー兵長だ。少し離れたところで息を殺し、隠れていたのだ。
アケミの十メートル先で横たわる大剣、そして血の跡を残しながら坂を転がっていった死体を見比べ、ウェルバーはただただ息を呑む。
「マジかよ……最初聞いた時は頭おかしくなったのかと思ったが、よく上手くいったな。そもそも奴がここに現れて、霧がなかったら成り立たない作戦だったぞ」
「…ここに来ることは予想できました」
「何!? どうして?」
ウェルバーたち第二大隊を中心に組織された捜索隊は、神出鬼没のジラーに手を焼いていたのだ。
「蹄鉄ですよ。ジャイオンは超大型の馬だから特注品で替えが効かない。それにジラーは馬の気持ちがわかる奴だという話だったので、なおさら馬の脚に負担のかかる岩場は避ける」
「なるほど!」
ウェルバーはポンと手を叩く。
「地面のコンディションがよく、ジャファルスへのルートと重なる所が奴の居場所というわけで、霧が出るこのタイミングでこのポジションだったのは、偶々ですけどね」
「…とはいえ、相手の行動パターンを知り、心理を読み、地の利まで作戦に組み込むとは大したものです。あの武器だけは規格外でしたが」
ナムドが評しながらアケミに歩み寄る。
「斬馬刀……ウチにあった古い文献から作ってみたものだったが……実用にはまだ遠いか」
ナムドの前に両手を出す。掌は皮がずるりと剥けて、真っ赤になっている。
「………」
ナムドはアケミの手を取ると……爪を立てるように、ぐっと握る。
「くぅっ…!!」
「!! おまっ……何やってやがる!!!」
激怒したウェルバーが掴みかかろうとする前にナムドは一歩引いた。しかしウェルバーの怒りは収まらない。
「てめぇ……コイツはオレの後輩だぞ!! これ以上傷つけんじゃねぇ!!」
怒鳴りつけられたナムドは、そして後ろに庇われたアケミも目を丸くし―――プッと苦笑する。
「何が可笑しい…!?」
「いえ…」
ナムドは中隊長、アケミも軍属ではないとはいえ将軍格。しかしウェルバーはナムドが同世代であり、アケミが養成所所属時代の後輩だという感覚で口を利いているのだ。もちろん普通はこんなことはないのだが……。
二人に笑われて白けてしまったウェルバーは腰のポシェットから包帯を出し、巻いてくれた。おそらくこの人はこの人で、ミリムのことに責任を感じているのだろうとアケミは思う……。
「ナムド中隊長……すまないがこの手では剣を握るのは無理そうだ。後のことはお任せしたい」
「よろしいのですか…?」
このやり取りはアケミが監視から離れて一人で行動するためにあらかじめナムドと決めていたことだったのだが―――
「よろしいもクソもねぇ…あんたも事情を知ってるんだろ。酷なことさせるなよ…」
勘違いしているとはいえウェルバーの心遣いに胸が痛む…。
「了解しました、上には私から報告しておきます」
「助かる。ついでに申し訳ないが、あたしは先に引き揚げさせてもらう」
「結構です。ウェルバー兵長、下に待機している者たちを呼び、遺体と剣の回収を」
「あの剣もだけど、馬をどうやって積むんだよ……人手がいるなぁ」
笛を吹いて合図を送るウェルバーの横を通り過ぎ、バラバラになったジラーの前で足を止める。
こいつもバカな男だ……。
身体を許すほうが金を用意するよりはるかに面倒がなく、しかもあたしを釣るためのいいエサになる。そして時間稼ぎをさせられた挙げ句、余計な挑発をしてあたしに始末され、口封じも完了……クーラさんの考えることが手に取るようにわかる。そう……あたしには、わかる―――……。
底冷えする深夜、無人の家を訪れる。郊外にある小さな平屋は、クーラさんと幾度となく求め合った、逢引の場だ。
玄関の鍵を開ける……。
クーラさんは昔親戚が住んでいた家だと言っていたが、今になって思えばセーフハウスだったのかもしれない。
灯りも点けず、二人で籠った部屋に入る。ベッドを目の当たりにすると、絡み合う自分とクーラさんの姿がぼうっと浮かび上がり、脳裏に茹だる様な熱い夜の記憶がフラッシュバックする……。
呼吸を忘れたように唇を重ね、焼けつくほどに肌を擦りつけ、それでも足りなくて相手を弄り、もがくように愛を交わし、快楽を貪った。幻聴なのか、耳元に吐息と喘ぎが聞こえてきたような気がして、身体の底が熱く潤み、酷い渇きを覚えて……無意識に己の指が首元から胸をなぞり下りていく……
――そして次の瞬間、ミリムの顔が目の前に現れて背筋が凍りつく。
悦楽と後悔が入り混じって浮かび上がるここは、地獄のような場所だ……。
辺りを見回し……ふと気付いてベッドへ歩み寄り、枕の下に手を入れた。指先が渇いた感触を捉え、一枚のメモが出てくる。それは、クーラさんからのメッセージだった。
前に合鍵を渡されていたが、やはりこの場所に手掛かりがあった。ジラーはクーラさんがあたしと接触するための囮に使われたのだろう。クーラさんはまだエレステルにいる……。
だが、どうしてよりによって枕の下に隠してあったのか…。
あたしが枕に顔を埋めて、残り香で自分を慰めるとでも思っていたのか―――
「―――っ」
ベッドに長刀を叩きつける。わずかな星明かりの中、舞い上がる埃がそれまでの何もかもを散り散りにしていくようだった。
「くそ……くそっ……」
長刀を握る手は血が滲み、震え始めていた。
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