第5話 思念の祝福

「先生……」

「あ、お兄やっと起きた!」

「……おにい?」


 憧れの先生とは百八十度違うあどけない声により、布団の中で微睡んでいた意識がゆっくりと浮上する。


「……なんだ、祥子か」


 現在俺が身を寄せている児童養護施設、『紅葉寮』。そこで共に暮らしている十歳の女の子は布団から起き上がった俺を見るなり、跳ねるような足取りで部屋の外へ駆け出していった。


「祥太ー、こっち来てー!」


 女の子の溌溂とした大声が廊下に響くと、今度は祥子よりも一回り小さな男の子が扉の外から顔を覗かせる。


「……お兄、おはよ」

「おはよう、祥太」


 祥子とはまた正反対の物静かな男の子、祥太。祥子よりも二つ年下の弟は自身の姉と一緒に、滑り込むようにして布団の枕元へ座り込んできた。


「どうしたんだお前達。わざわざ俺を起こしに来るなんて珍しい」

「だってお兄ってまだ病み上がりじゃん? この前退院したばかりだし」

「うんうん」


 祥子の言い分に頷きながら、祥太も心配そうに俺のことを見つめている。


「退院したと言っても、親父の病院で寝ていただけなんだけどな」


 二階建ての紅葉寮の一階には施設の責任者でもある親父、小鳥遊医師によって切り盛りされている個人医院『紅葉医院』が併設されている。

 三週間前に銃撃を受けた俺はエルザに担がれ、最早自宅とも言える小さな病院に搬送されたのであった。


「お兄の身体、すっごい血塗れだったよね。お父さんも、『お前は死にたいのか死にたくないのか一体どっちなんだ』って呆れてたっけ」

「……ハチの巣、だった」

「そ、そうか」


 二人の話を聞いていると途端に自分の容体が心配になり、布団を捲り上げて包帯を取ったばかりの大腿部や腹部を撫でてみる。


「……だ、大丈夫だ。傷はもう塞がったし、退院っていう親父からの太鼓判もあるし」


 怪我の不安を振り払うようにして、パジャマ姿のまま布団から立ち上がる。


「二人とも、朝ご飯はもう食べたか?」

「うん、美味しかったよ! お姉が作ってくれた目玉焼き!」

「とろとろの黄身が、ちょー美味い」

「ああ、今日は薫が当番だったな」


 紅葉寮のもう一人の入居者、卯月薫。俺よりも一つ年下の彼女が作る料理の味を思い出すと、目覚めたばかりで空っぽの胃が早速腹の虫を鳴らす。


「……フフフ」

「あ、待ってよお兄!」

「まってー」


 真っ直ぐリビングに向かう俺の後ろを、祥子と祥太の軽快な足取りが付いてくる。


「おはよう、薫」

「…………」


 寝室からほど近いリビングに配置されたダイニングテーブル。そこに座っているショートヘアの女の子は既に学園の制服に着替えており、ようやくリビングにやってきた俺へ文字が記されたメモ帳を突き出してくる。


『遅い。また夜更かししてたの?』

「夜更かしではない。朝陽と共に覚醒するはずだった我が魂が、人心を惑わす悪霊に囚われ堕落してしまっただけのこと……」

『要するに二度寝ってことね』


 弟と妹の前でかっこつける俺には目もくれず、薫にとって唯一のコミュニケーションツールであるメモ帳に新たな文字が浮かび上がる。


『朝ご飯レンジで温め直しておくから、一季は先に洗面台で顔洗ってきて』

「俺は別に、薫が作った飯なら冷えていても構わないが」

「…………」


 薫はメモ帳をテーブルの上に置くと何を思ったのか、指輪をはめた人差し指を俺の目元へ向けてくる。


「な、何だよ……」


 指輪の上にはエメラルドが埋め込まれており、淡い翡翠色の輝きがすぐ目の前でゆらゆらと揺らめいている。


「あ、お兄! 目ヤニ付いてる!」

「……ばっちー」

「……え⁉」


 祥子と祥太は興味津々に、薫が指差す先を見つめている。慌てて目元を拭ってみると、手の甲には生理的な分泌物である小さな黄色の塊が付着していた。


「み、見るな……恥ずかしい……!」


 三人の視線から逃れるようにして、リビングから洗面台へ向かってがむしゃらに走る。


「くそ、薫め……!」


 蛇口から流れる冷えた水道水を両手で掬い、いつもより念入りに顔中を擦る様にして洗う。紅葉寮における二番目の年長者として、弟妹達に恰好が付くような身だしなみぐらいは整えておかなくては。


「あれ?」


 髪の手入れや歯磨きを終えてリビングへ戻ろうとすると、洗面所に面する廊下の上を駆ける二つの足音が聞こえてくる。


「祥子に祥太? まだ七時半なのにもう学校に行くのか?」

「うん! 今日はわたし達がウコッケイのお世話係だから!」


 上機嫌に足踏みをしている祥子が言う『ウコッケイ』とは、二人が通う学校で飼育されている鶏のことだ。祥子と祥太曰く、でっぷりと肥えた白色の身体がチャーミングとのことらしい。


「お兄、行ってきます! 学園で体調が悪くなったらすぐお姉に言うんだぞ!」

「だぞー……」

「ああ、行ってらっしゃい。お前達こそ車や悪魔には気を付けろよ」


 「分かってるー」と手を振り、二人の飼育係は今日も元気に一階へ続く階段を駆け下りた。


「というか、俺もそろそろ急がないとまずいな」


 二度寝してしまったことをほんの少し後悔しながら、空腹なお腹を抱えて薫が待っているリビングへ戻る。


「悪いな薫。すぐに食べちまうから」

『一季、その前に』

「あ、そうだった」


 薫の真向かいに座り、テーブルの上で目を閉じて固く両手を組む。


「天使様の施しに今日も感謝を」


 日課であるお祈りを済ませて目を開き、空腹に突き動かされるがままフォークを手に取る。


「いただきます」


温め直された目玉焼きに先端を突き刺し、手に取ったトースト共に貪り喰らった。


『一季、はしたないからもっとゆっくり食べなさい』

「モーマンタイだ。俺の胃袋は鋼鉄で出来た無尽蔵……うっ」


 薫からの忠告を受け流そうとした途端、喉の奥底で詰まるような苦しさに苛まれる。


「……ん」

「た、助かる……」


 薫の手には既に牛乳が注がれたコップがあり、それを受け取るなりグラスを傾け白色の液体を口から喉に流し込んだ。


「……ふう、九死に一生を得るとは正にこの事」


 朝食で死ぬわけにもいかず、今度は薫に言われた通りゆっくりと朝食を口に運んでいく。


「そうだ、死にかけたと言えば……」

「?」


 何気ない臨死体験が引き金になったのか、三週間前の出来事がふと脳裏を過る。


「この前、薫が漆黒の天使について教えてくれたんだよな」

「……ん」


 口を固く閉ざしながらも、薫は首を縦に振って肯定の意を示す。


「ずっと気になっていたんだが、あの情報ってどこから仕入れたんだ?」

「…………」


 ほんの僅かに間を開けた後、既に俺への回答が記されているメモ帳が提示される。


『学園でたまたま、教員の天使様達が話していたのを聞いただけ。銀髪の天使様が七海先輩と廊下で話をしていたって』

「銀髪、か……」


 天使の髪にも様々な色があるとはいえ、銀髪なんて俺の先生ぐらいしか見たことがない。


「エルザとその天使様がどんな話をしていたのか、までは分からないのか?」

「んーん」


 メモ帳に否定の言葉を書くまでもなく、薫は力なく首を横に振る。


「そうか。ふむ、また機会があればエルザに聞いてみるか」


 目玉焼きを全て平らげ、既に半分ほど欠けているトーストを口に含む。


「……ん」

「薫?」


 喉を詰まらせないようにトーストを咀嚼していると、薫はどこか不安気な顔をしながらメモ帳を突き出してくる。


『一季はまだ、漆黒の天使様を探すつもりなの?』

「ああ、もちろん」


 メモ帳に記されている薫の文言を前にして、今の世ではありふれた殺し屋養成所でもある学園に入学した理由を思い出す。


 紅葉寮から程近い場所に位置する学園、『天立紅摩学園』。そこに入学を決めた理由はただ一つ、突然俺の前から姿を消した先生を探す為だ。


「俺が調べた限り、漆黒の天使の目撃情報は紅摩学園を最後に途絶えている。だからきっと、先生に繋がる何かしらの手掛かりが今も学園に残っているはずなんだ」

『でも、一季はその手掛かりすら見つけられてないんでしょ? 学園に入学してからもう一年以上も経ったのに』

「そ、それは……」


 状況は薫がメモに書いた通りであり、二年生になった今も足取りの『あ』の字すら見つけられていない。


『恩師にまた会いたいって気持ちは分かるけど、無理はしないで。全身に穴を開けて帰ってきた一季の姿なんて、もう見たくないから』

「……分かった、肝に銘じておくよ」


 一欠片になったトーストを飲み込み席から立つ。リビングの時計はその長針と短針を傾け、そろそろ制服に着替え始めないと遅刻してしまう時間を指していた。


『それじゃ一季、私は玄関で待ってるね』

「了解、三分で済ませる」


 薫の左手の人差し指で輝くエメラルドの指輪。そしてそこに込められた祝福、『思念の祝福』によってメモ帳に記されていく薫の想い。どれも全て、紅葉寮で暮らす俺にとっては当たり前の日常風景だ。

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