第二章

第4話 先生

「ねえ先生」

「なあに、一季?」


 真っ白な病衣を着こんだ俺の隣で、真っ白な半袖ワンピースに身を包む銀髪の女性はにこりと微笑む。普段は閑散としている屋上のベンチが、今日だけは珍しく俺以外の来客を歓迎していた。


「先生は天使様なのに、どうして翼が黒色なの?」

「それはね、私が一季みたいな小さな子供を誑かす悪い天使様だからだよ」


「それじゃあ、先生の輪っかはどうしてぴかぴか光ってないの?」

「それはね、私の頭の中が善行じゃなくて悪行でいっぱいに染まっているからだよ」


「嘘ばっかり。先生、そんなに俺のことをからかって楽しい?」

「逆に聞くけど、どうして一季は私の言ってることが嘘だと思うの?」


 悪戯な女性の問いかけへ、まだ十にも満たない俺は彼女の黒色の眼をあどけなく見つめながら答える。


「だって、先生は悪人なんかじゃない。先生は優しくてかっこいい、俺にとって恩人の天使様なんだ」

「……もう一季ったら、嬉しいこと言ってくれちゃってー!」

「っ……⁉」


 銀髪の天使はその言葉通り心底嬉しそうに、諸手を挙げた両手を使って俺の頭を撫でまわす。


「や、やめてよ先生! 俺、もう子供じゃないんだよ!」

「大丈夫大丈夫! 私から見れば人間なんて、みんな子供みたいなものだから!」

「そ、そういう問題じゃないんだけど……」


 年齢不詳の天使に頭をまさぐられながら、幼い視線は頭上に広がる青空へ向けられる。そこには大きな雲の群れの傍らで、一際小さな形を保って浮かんでいる雲の姿があった。


「……早く、大人になりたいなあ」

「大人になりたいの? それならまず、言葉遣いを変えてみたら?」

「言葉遣い?」

「そうだなあ、例えば……」


 先生は俺の頭から離した右手を使い、わざとらしく大仰に自らの目元を覆い隠す。


「我の名は『漆黒の天使』。『不死の祝福』をこの身に宿した、遥か彼方の宙より舞い降りし奇蹟である……フハハハハ‼」

「…………」


 突発的な先生の自己紹介により、周囲の世界を覆う時間と空間が凝り固まる。


「……えーと、一季?」

「…………」


 静止した俺の様子を見て、我に返った先生は困ったように右手を顔から降ろす。


「かっこいい‼」

「へ?」


 胸の奥底から湧き上がる衝動に身を任せ、嘘偽りのない憧れの言葉を口にする。


「すごく、すっごくかっこいい‼ 大人って、そんな風におしゃれな話し方をするんだね‼」

「……そ、そうなんだよ! いやあ、一季は見る目があるね!」


 先生も俺と同じように頬を無邪気に緩め、得意気な両手を腰に当てている。


「でもね一季。言葉遣いを変えるだけじゃ良い大人にはなれない。ほら、あのナイフをあげた時の言葉を思い出してみて」

「言葉……」

「何、もう忘れちゃったの?」


 先生と病室で出会った時、俺はベッドの上でいつか来る死を待ち続けるだけの生きた屍だった。実の両親の死を目の前で目撃してしまい、明日を生きる希望さえ持てなくなっていた。


 そんな俺に差し出されたのは先生自らの祝福、『不死の祝福』が込められたナイフだった。


『このナイフは君の弱さ、そして強さの証だ。どんなに苦しいことが、どんなに辛いことがあっても、君は自分の弱さを忘れずにこれからを強く生きていくんだよ』

『……どうして、弱さを忘れちゃだめなの?』

『それはほら、私を見てみなよ。他の天使達と違って全身傷だらけだけど、今もここに立って生きている。自分で言うのもなんだけど、そういうのってかっこいいと思わない?』

『……かっこ、いい』


 欠けた灰色の光輪を頭上に浮かべていても、真っ暗な暗闇色に染まりきった片翼を背負っていても、それでも先生は誇らしげに笑っていた。俺にはそんな彼女の姿が自分のことのように誇らしく思えて、気が付くと容態は一日もしない内に忽ち回復していった。


「強さだけじゃなくて弱さも見捨てないように、だよね」

「なんだ、ちゃんと覚えてるじゃん」

「忘れないよ。俺だっていつか、先生みたいなかっこいい大人になりたいから」

「……そっか」


 俺のことを見つめる先生の顔に、年季の入った穏やかな笑みが浮かぶ。


「ああ、楽しみだなあ」


 聡明でいて少女のように朗らかな先生の笑顔は今日も、俺の心にどんなナイフよりも深く鋭い傷跡を刻み込む。


「一季はこれから、どんな大人になるのかな?」

「……!」


 痛みにも似た胸の高鳴りが否応なしに伝えてくる。俺はすっかり先生の笑顔に、黒色の瞳に映る命の輝きに夢中になってしまったのだと。




 それからしばらくして、先生は俺の前から言葉もなく姿を消してしまった。ただ一つ、『不死の祝福』の加護を得たナイフだけを残して。

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