第16話
十一月になって最初の日曜日の夜、助手席に玲子を乗せて、俺は名神高速道路を飛ばしていた。
この数日間、玉ちゃんのことも含めて様々なことを考え続け、事務所でも自宅でも朦朧とした時間が過ぎた。
こころの状態は、虚脱感と武者震いするような緊張感と、それらの状態から逃げ出してしまいたい恐怖感に襲われていた。
俺は夢遊病者のようになっている自分を叱咤し奮い立たせて、ようやく夜九時を過ぎて車の運転席に身体を滑り込ませることができた。
玲子を迎えに寄ると、彼女はマンションの入り口まで出て待っていた。
車から降りて助手席のドアを開けると、彼女は無言のまま乗り込んだ。
真っ白なワンピースを纏い、首に大きな黒真珠のネックレスを巻いていた。
その姿は、これから儀式へ臨むこころの揺るがなさを意思表示しているように俺には思えた。
名神高速道路はこの夜、なぜか一台の車も走行していなかった。
照明灯の下、俺の車だけが空っぽの道路をひた走った。
玲子はひと言の言葉も発さず、フロントガラスから見える漆黒の夜空と、その下のヘッドライトの明かりだけをずっと見続けていた。
一宮インターから名古屋市内を突き破って東名高速道路に乗り換え、四日市で伊勢湾岸自動車道に入った。
伊勢湾が眼下に見えたところで高速道路を降りた。
いつの間にか日付が変わっており、時刻は午前一時を過ぎていた。
岸壁へ向かう道路沿いにある多くの工場は操業していなかった。
太く長い配管が何匹もの蛇のように工場に巻きついていた。
岸壁が近づいてくると、いくつもの巨大なボイラーと夜空に突き刺さるように聳え立つ煙突が見えた。
煙突から吐き出される赤黒い排煙が、星空をこれでもかと痛めつけるように焼いていた。
そこは火力発電所だったのだ。
広いグランドや体育館などが見える総合運動場の横を抜けて、発電所沿いをさらに車を走らせた。
発電所はまるで森の中にあるかのように、多くの緑の木々に囲まれていた。
伊勢湾と森との間を直線道路が貫き、道路はこのまま伊勢湾の海の底にまで通じているかのように思えた。
いくつかの巨大なタンクと煙突が間近に見え、それらを仰ぎ見て通り過ぎると岸壁に突き当たったが、そこは当然のように堤防によって海とは隔てられており、車をジャンプさせることなどできない状態だった。
やむなく左に折れて湾岸沿いをほぼ半周してみたが、火力発電所を囲む湾岸には車を海に突入させられる場所は見当たらず、俺は落胆し焦った。
だが今更何を躊躇があるものかと、俺はさらに車を走らせた。
助手席の玲子は黙ったまま前方だけをじっと見ていた。
発電所を後方にして伊勢湾岸自動車道の下を潜り抜けると斎場があり、手前の海岸沿いに多くの漁船が並んでいるのが見えた。
あと二時間もすればこれらの漁船は漁に出るのだろうか、俺は小さな漁港の最も海に近い端に車を止めた。
目の前には真っ黒な海と漆黒の夜空だけが見えたが、その分かれ目さえ不明な黒さだった。
漁港の岸壁に立つ常夜灯だけが、ここが小さな漁港であることを微かに世に示していた。
俺は車のハンドルに顔を埋めてしばらく深呼吸をした。
玲子はまるで蝋人形のように微動だにせず、目の前の黒を見続けていた。
この位置から車を急発進させ、低い車止めを突き破れば伊勢湾にジャンビングアンドダウンできるのは間違いなかった。
「ここをサヨナラの場所とするか」
「綺麗な海ね。あなた、大丈夫なの?後悔しないのね、これでいいのね?」
ようやく玲子が言葉を発した。
抑揚のない静かな一本線のような口調だった。
「リョウ君が待ってるんだろ。早く行ってあげないと」
「そうね」
玲子はバッグから睡眠薬の錠剤とペットボトルを取り出した。
ブルーの錠剤を四錠だけ、アルミ包装を破って取り出し、二錠を俺の手のひらに置いた。
「本当にいいのね。今ならまだ抜けられるわよ」
「そんなこと言わないでくれ。ひと思いに行くんだ」
「分かったわ」
玲子はそう言ってから何の躊躇もなく錠剤を口に含み、ペットボトルの水を流し込んだ。
彼女の喉が波のように動く様子を見て緊張感が俺を襲った。
これまで想像するだけだった光景が現実のものとなり、俺は身体が震えだしたが、不思議と恐怖感はなかった。
「あなたも飲んで」
俺も手のひらの錠剤を口に放り込み、玲子から手渡されたペットボトルの水を流し込んだ。
それから俺たちは最後の抱擁と深く長いキスを交わし、惜しむようにゆっくりと唇を離した。
「眠くなったらサイドブレーキを外してアクセルを踏んで。絶対にためらわないでね」
俺と玲子は手を握り合ってシートに身体を凭れかせた。
五分もすれば気だるい感覚と睡魔に襲われた。
思考する能力がどこかに飛んだ。
口を半開きにしたままの玲子の横顔はとても綺麗だった。
すでに眠っているようだったが、繋いだ手を強く握ってみると軽く握り返してきた。
俺はついに意識がなくなりそうになった。
今、この瞬間しかないと思った。
「行くぞ」
「ええ」
俺は繋いでいた手を離してサイドブレーキを外し、同時にアクセルを思いっきり踏み込んだ。
車が急発進した。
ガクンガクンと二度タイヤが踊ってから車はジャンプした。
予測していたよりあっけないジャンピングだなと微かな意識の中で思った。
いったん閉じた目を開くと、目の前には何も見えなかった。
いや、見えていたのは遥か彼方まで続く暗闇だった。
意識が消えた。
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