第14話
新阪急ホテルのロビーはディナーバイキングを楽しむサラリーマンやOL、それに出張族で混雑していた。
俺はフロントが正面に見える位置にある大きな柱を背にして立った。
「ごめんなさい、お願いしておきながら待たせてしまって」
約束した時刻より五分程度過ぎてから玉ちゃんが現れた。
濃いグレーのスーツに細い身を包んでいた。
ひと際周辺の目を引く彼女の容貌に俺は少し緊張した。
「何か食べようか。リクエストはあるかな?」
「じゃあ、ピザが食べたい」
「ピザはこの前の荷物運びの日に食べただろ」
「いいの、ピザが好きなの」
俺たちは阪急グランドビルの二十七階にあるイタリアンレストランへ入った。
大きな窓から綺麗な夜景が見える店だ。
「粂井さんっていろんな店を知っているのね。このお店、結構高いんじゃない?」
「いや、ここは以前スポンサーのご婦人と一度来たことがあるだけなんだ。このロケーションと料理の割りには、ずいぶんと安かった記憶があるからね」
玉ちゃんは大きな瞳を忙しく回して、窓からの夜景や周辺の席を見回していた。
コース料理を選び、ワインを適当に一本注文した。
「ところで相談って何だろう?」
「実は、私の兄のことなんですけど・・・」
それから玉ちゃんは兄のことについて語った。
彼女と兄はもともとふたりで塚本のマンションで暮らしていたのだ。
兄は府下の精密機械メーカーであるK社の研究所に勤めていたが、昨年の九月から現場を経験するために奈良県大和高田市内の工場へ転勤となり、それを機に柏原市の独身寮に移った。
工場作業は三交代勤務で、しかも仕事がきつく、真面目な兄は言われるままに残業を続けたため、次第に体調が悪化していった。
正月は石川県金沢の実家にふたりとも帰省したが、両親も兄の変わりように驚いたという。
家族と数日過ごしたが四日から兄は寮に戻り、再び三交代勤務に就いた。
玉ちゃんも家族も心配はしていたが、研修は三月に終わると聞いていたのでもう少しの辛抱と励ましたという。
ところが半年間の工場研修の予定が、四月の年度替りで会社方針からもう半年間延長された。
研究所に戻れるとばかり思っていた兄は、工場勤務の延長のショックと過労による心身両面の疲れなどから、四月下旬の夜勤明けの朝、近鉄大和高田駅のホームから発作的に電車に飛び込んだ。
「飛び込んだのが普通電車だったの。だから跳ね飛ばされずに下敷きになって、身体は手も足も何ともないの。どこも切断されなかったのよ、奇跡的でしょ」
「それは不幸中の幸いと言っていいのかな。電車に飛び込んだって、その行為を聞いただけで、正直、俺には震えるほど怖いことだな」
「最初、警察から電話があったとき、お母さんはショックで倒れてしまったの。私はその日出勤してすぐに連絡があって、急いで病院へ駆けつけたのだけど、何が起こったのか理解できずにうろたえるだけ」
「そりゃあそうだろうな。誰だってうろたえるよ」
「うん、ともかく命は助かったのだけど、脊椎だったか、どこかがやられていて、下半身が不随になってしまったの。今は金沢の実家で車椅子生活」
玉ちゃんは少しだけ涙ぐんだが、この前みたいには泣かなかった。
「兄は工場勤務が予定より延びたことや、残業の疲れから発作的に電車に飛び込んだと思うの。だから労災の適用と今後も身障者としての雇用をお願いしたのだけど、会社はあくまでも兄個人の問題からの事故なので、どちらも難しいって言うのよ。ひどいでしょ」
「そうだな、それはあんまりだ」
「私の両親も兄もおとなしい人間で、何も会社に言おうとしないの。わずかな見舞金だけで、会社はうやむやにしようとしているのよ。私、悔しくって」
「弁護士に相談しなかったの?無料法律相談所みたいなのが各自治体にあるはずだけど」
「父がそういう窓口に一度行ってみたらしいの。でもやっぱり難しいのではないかって。粂井さん、何か方法がないかしら?このまま泣き寝入りするのは悔しいから」
「そうだな、お兄さん個人の問題ってことはないだろうし、会社は誠意がなさ過ぎるように思うね。
この前寮監さんが会社も冷たいものだと言っていたけど、そのとおりだな。このまま泣き寝入りなんて、絶対にするべきじゃない」
兄の部屋で寮監が気の毒そうに言っていたことを俺は思い出した。
就労中の事故ではなかったとしても、夜勤明けの朝、工場から寮への帰宅途中、さらに職場環境の悩みから発作的に飛び込んだのであれば、会社側にも責任があると俺は思った。
彼女の身の回りでそういうことが起こっていたのだ。
「安曇野」でたびたび酔っ払っていたのは、兄の事故の辛さを紛らわすためだったのだろう。
俺は玉ちゃんに「ちょっと考えてみるよ」と一応返事した。
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