第13話


 十月下旬、深夜に玲子から連絡があった。

 

 ほかでもない俺たちの最期についてだ。

 俺はいつでもいい、一緒に終わる方法と場所と日程を任せると玲子に伝えていたからだ。


 今更ながら考えてみると、俺はひとりなのだ。

 今治を出て以来、故郷の友人や知人との接触はない。

 大学時代や社会人になってからも、友人とはっきり呼べる相手は、踏み込んでいた人間関係の中に存在しなかった。


 明香と知り合って初めて友人ができた気がした。

 彼女だけが俺の親友と言えたし、俺のすべてを知る唯一の存在だったに違いないのだ。


 思えば俺たちは知り合ってスムーズにお互いを受け入れ、急速度で愛し合った。

 俺に欠乏している人格や嫌な部分も明香はすべて容認し、俺と結婚してくれた。


 付き合っていたころや新婚時代の幸せだった時期が今頃になって懐かしく、思い起こせば俺の粗末な人生において、明香の存在はとてつもなく巨大だった。


 だが、多くの人々がそうであるように、近くに見える間はその大切さや存在の大きさが分からず、失くしてしまって初めて気づいたのだ。


 明香がもうこの世に存在しない今となっては、もはや俺が生きていく必要性や価値がどこにあるというのだ。

 もう思い残すことなど何もないと思った。


 もしかすれば玲子は、この世に別れを告げる道標のような役割を担って俺の前に現れたのかも知れない。


 明香は天国で俺と玲子の痴態を眺めているのだろうか?

 もしそうなら彼女の元に行っても、素直に喜んではくれないだろうか?


 いや、玲子が現れたことによって、明香の死を知って以来、ずっと考え続けていたこの世との決別を、今こそ具現化しようとしているのだから、明香の元へたどり着くための道標的な玲子と一体化したことを、きっと咎めないはずだ。


「十一月の最初の日曜日、終わりでいいかしら。海の底は、どう?」


「えっ?」


「海は、どうって言ったのよ」


「どういうことかな?」


「海の底に沈みたいのよ」


「何だ、そういうことか。場所や手段はあんたにすべて任せる。本当はあんたと繋がったまま逝きたいけど、それだと天国の妻が快く迎えてくれないだろうからな」


「フフ、そうかもね」


「今からそっちへ行ってもいいかな?」


「あなたが望むなら待ってるわ」


 俺は真夜中の新御堂筋をブッ飛ばした。

 車を走らせながら、俺がこの世から消えたあとのことを考えてみた。


 両親や弟や妹もおそらく驚きとともに悲しむだろう。

 でもその悲しみは時の経過とともに静まり、やがては盆正月くらいにしか俺のことなど思い起こさなくなるのだ。


 最期の日までに事務所を閉めよう。今月末で急遽廃業だ。

 幸子さんには明日話そう。いや待てよ、事務所なんてそのまま放って置いたって何の問題があるというのだ。


 俺から連絡が途絶えると、スポンサーたちは次々と事務所に電話をしてくるだろか?

 応対の幸子さんは「しばらく出てきていません」と戸惑いながら返答するだろうか?

 手形はドンドン無事に落ちて、不渡り事故など一枚も出ないはずだ。


 でも俺は事務所に姿を見せず、福島のマンションにもいない。

 一週間か十日程度が経って、不安に思った幸子さんが安曇野の女将さんに相談して、そこでようやく警察に届けるだろうか?

 警察があれこれ調べて実家に連絡をするだろうか?


 それよりも、俺と玲子の死体は海の底に沈んでしまうとすぐに上がらず、行方不明者となるだろうか?

 或いは永遠に海の底に沈んだままにならないのか?

 そんな状態でも俺はあの世に行けるのだろうか?


 死体が確認されないと俺はどこにも行けず、あの世とこの世との狭間をさ迷い続けなければならないのか?

 海の底は綺麗で神秘的かも知れないが、明香の元へ行けなくては困るのだ。


 玲子の部屋は、隅に置かれたフロアランプの明かりで薄暗い橙色に染まっていた。


「明日の仕事は大丈夫なの?」


 彼女は紅茶を飲んでいた。俺は背後から抱きすくめ、首筋に唇を押しつけた。


「もう終わろうとしている俺に仕事なんて何の意味があるんだ」


「本当にいいのね」


「いつだってかまわない」


「じゃ、十一月最初の日曜日の夜に実行よ。私、前日に息子のお墓参りに行くわ。もう少しだけ待っていてねって伝えに行くの」


 玲子は立ち上がり、隣の部屋に消えた。しばらくして小さな袋を持って戻ってきた。


「これは即効性のある睡眠薬なの。最期の海を決めたら、まずこれを飲むの。意識が朦朧としてきたらアクセルを強く踏んで一気に車を海に突っ込んでね。あなたにできる?」


「子供騙しみたいなもんだな。何の問題もない」


「どこの海にする?」


「あんたに任せる。どんな海だって車で一気にジャンプしてやる」


「分かったわ」


 俺は玲子の目を見た。その目にはこころの中を読み取れるものは何ひとつ見えなかった。

 強い眼光だけが俺の目を覗き込んでいた。


「もう一度だけあんたを抱きたい」


「抱いて」


 玲子はガウンを脱ぎ捨てた。俺たちは何かに憑かれたかのように身体を溶け合わせた。


 俺は玲子の中に入り、できるだけ長く繋がりたかったが、これまでにない興奮状態になっていたため、わずか五分ほどで奥深く放った。


 玲子の顔が短い叫びとともに裏返った。ふたりともしばらく動けなかった。

 三十分近くも俺たちはベッドに突っ伏していた。


「こんなに感じたのは初めてよ」


 ようやく玲子が身体を起こして、長い髪をかき上げながら気だるそうに言った。


「もうこういう気持ちのよいことは金輪際できないんだな」


「そんなこと言わないで」


「そうだな、ごめん」


「どうしたの、気が変わった?」


 ベッドに仰向けになり、天井を見つめていた俺に玲子が言った。

 そのとき、脱ぎ捨てていた俺のジャケットのポケットにある携帯電話が鳴った。

 マナーモードにするのを忘れていたのだ。


 こんな時間にいったい誰だと着信番号を見ると玉ちゃんのものだった。


「携帯が鳴っているわよ」


「いや、いい」


 一回切れた携帯電話はすぐにまた鳴った。


「出てあげたら」と玲子が言った。俺は身体を起こして電話に出た。


「今どこにいるの?」


「どこって・・・もう寝てたよ」


「明日会いたいの。相談があるの」


「分かった」


 玉ちゃんと明日の夜、新阪急ホテルのロビーで会う約束を交わした。

 きっとこの前荷物を運んでやったことに関係することだろうと予測できたが、今更相談を受けたって俺には何もしてやれない。

 俺は首を振りながら電話を切った。


「あなた、全然ひとりじゃないじゃない。こんな深夜に電話をしてくるひとがいるのだから。今の電話は女性でしょ?」


「女性?いや、まだ女の子だ」


「何なの、それ。あなた、抜けなさい。私ひとりでいいから」


「馬鹿なことを言うなよ」


「死ぬ必要なんてないじゃないの。心配してくれる人がいるのだから。もし私に同情しているのなら、そんなもの要らないから。もう一度よく考えてみて」


「十一月最初の日曜日だな。夜、迎えに来るよ」


 玄関を出るときに振り向くと、玲子の姿が幻のようにゆらゆら揺れていた。


 俺はドアを閉めたあと、さっきの彼女の姿が気になってもう一度ドアを開けようとした。

 だがドアはロックが掛かっていて開かなかった。

 俺は諦めて車に乗り込んだ。

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