第12話

 

 彼女の誘導で、柏原市内のK社という精密機械メーカーの従業員寮に着いたのが午前十一時半ごろだった。


「ベッドは備え付けだから運ばなくていいの。本が多いから段ボールを寮監さんに頼んであるの。もらってくるから、ちょっとここで待ってて」


 玉ちゃんは部屋から出ていった。しかし、なぜ兄が寮に荷物を残したまま退職してしまったのか、復帰できない病でも患ったのか、或いは何かトラブルがあったのか、いくつかの可能性想像してみたがどれも違っている気がした。


 しばらくして玉ちゃんが年配の寮監と一緒に戻ってきた。


「本をダンボール箱に詰めるだけでも大変ですな。ご苦労様です」


 寮監は俺に会釈をし、俺も軽く挨拶をした。

 玉ちゃんはダンボールを組み立て始めた。


「会社も冷たいもんだわな。仕事が忙しいのは仕方がないにしても、従業員のケアをちゃんとやらんといかんわな。ほんまにお気の毒なことだ」


「おじさん、もういいの。お願いだからそれ以上言わないで!」


 玉ちゃんが顔を上げて寮監に強い口調で言った。

 俺は驚いて本を運ぶ手を止めた。


「そうやな、ごめんな。でもまあ気を落とさんように」


 そう言って寮監は出ていった。


 俺は玉ちゃんが組み立てた段ボール箱に本を詰め込み始めた。

 書棚に並んでいる本はザッと見ただけで二百冊以上もあった。


 彼女の兄は読書家なのだろう。

 物理工学関係の専門書が多かったから、この会社では技術関係に従事していたのだろうと推測された。


 いつの間にか玉ちゃんがひとつの段ボール箱の前にしゃがんで、下を向いたまま動かなくなり、背中が小刻みに震えていた。

 彼女は泣いていたのだ。


「どうしたんだ、玉ちゃん」


「ごめんなさい、何でもないの」


 涙声で彼女は返事したが、そのあと両手で顔を覆って激しく泣き出した。

 俺は何がなんだか分からないまま、彼女の横にしゃがんで背中を抱いた。


「ベッドに座っていたらいいよ。これくらいの荷物なら俺ひとりで十分だから」


「ごめんなさい・・・」


 帰りも玉ちゃんは元気がなく、ときどき涙ぐみ、黙ったままだった。

 俺は彼女の様子を見守りながら注意深く車を走らせた。

 阪神高速の塚本ランプから降りて駅の近くまで来た。


「その交差点を左に曲がって、そして最初の十字路を右に」


「家の中まで俺が運んでもかまわないのかな?」


「お願いします。誰もいないから」


 彼女の部屋は四階建のマンションの二階で、比較的広い1LDKだった。


 マンションの前に軽トラックを停めて、玉ちゃんは軽いものを、俺は小型冷蔵庫やテレビ、書籍が詰まったダンボールを部屋の中に運んだ。

 ふたりで運ぶと作業は三十分あまりで終わった。


「本当なら上がってもらって何か出前でも頼むところなのだけど、駅前にあるレストランでお昼にしませんか?ちょっと遅くなってしまったけど」


「玉ちゃん、もういいよ。今日は疲れただろ。レンタカーを返して、俺はそのまま帰るから。こんどまたゆっくり飲もうよ」


 そう言って俺は部屋を出ようとした。


「私をひとりにしないで。お願い、粂井さん」


 振り向くと玉ちゃんがまた顔を両手で覆っていた。

 彼女の周りで何か大きな不幸が起こっていることは間違いなかった。


 俺は彼女を乗せて梅田で軽トラックを返してから、阪急ファイブの地下にあるレストランへ連れて行った。

 時刻はもう午後四時前になっていた。


「粂井さんって、良い人ね」


「なぜ?」


「何も聞かないのね。今日のこと」


「言いたくなければ何も無理することはないんだ」


 玉ちゃんは俺の言葉に「うん」というふうに頷いた。


「お腹が空いたね。朝食べたきりだもんな」


「うん、そうね。私もお腹ペコペコ」


 それから俺たちは運ばれてきた料理をゆっくりと食べた。

 玉ちゃんはドリアとサラダとピザを半分程度平らげ、アイスカフェオレを飲み干した。俺は残りのピザとたらこスパゲティを食べ、ビールを一本飲んだ。


「それだけ食欲があるなら大丈夫だな」


「うん、ありがとう」


 阪急ファイブから大阪駅まで、俺は玉ちゃんと一緒に歩き、東海道本線の下り列車が来るまで見送った。

 彼女はずっと黙ったままだったし、俺も何も言わなかった。


「今日は本当にありがとう」


「礼なんか言わなくていいんだ、玉ちゃん。何かあれば遠慮なく言えばいい」


 発射するドア越しに、玉ちゃんは何度も俺に対してお辞儀をしていた。

 俺みたいなどう仕様もない男にお辞儀をする玉ちゃんが、とてもいじらしく、愛しく思った。


 彼女と別れてから今日一日の出来事を振り返ってみた。

 寮監の言葉に「もうそれ以上言わないで!」と叫んだときの玉ちゃんの顔や、「私をひとりにしないで」と俺に訴えたときの彼女の姿が、いつまでも俺のこころから離れず、堪らないほどの切なさに包まれた。


 彼女がどのような問題に苛まれているのかを知りたかったが、それを聞くことに躊躇してしまう俺が歯痒かった。


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