第10話
玲子 六
「小学校一年生の入学式のときの写真なのよ」
写真をじっと見ていると、いつの間にか玲子が横に立っていた。
「私の不注意だったの、可哀想に。五月に江坂のショッピングセンターの駐車場で、主人が車を幅寄せしているときに、後ろにリョウがいるのに気がつかなかったの。
そのまま勢いよくバックしたものだから、ガードのコンクリートに飛ばされてしまってね、頭の打ち所が悪くて駄目だったの。私が気づいていればあんなことにはならなかったのだけど・・・」
「ご主人の車にあたったのか?」
「人間って一瞬で命を失くすものなのね。頭だけだったから、息を引き取ったあとも眠っているようなのよ。声をかければ目が覚めそうな顔なの」
そう言って玲子は涙を流した。
「リョウ君って、どういう名前だったんです?」
「亮一って言うの」
「良い名前だ」
俺は玲子を抱きしめ、頬に流れていた涙を吸った。
突然襲ってきた巨大な悲しみを受け入れることは、おそらく死に等しいほどの苦しみだったに違いない。
七月初旬に梅田地下街で最初に玲子を見たときは、まだ深い悲しみは彼女のこころから濾過されていなかったのだろう。
まるで夢遊病者が彷徨するように、投げやりな雰囲気を発しながら身体を引きずっていた彼女の姿が思い起こされた。
「それでご主人は?」
「主人は気が狂ったようにその場でうろたえるだけで、私が救急車を呼んで、リヨウを抱いて到着を待ったの。
リヨウは私の目を見ながら『お母さん、僕死んじゃうの?』って言うのよ。足から次第に動かなくなって、意識もなくなってしまってね、救急車が来たときは、もう手遅れだったの」
玲子は途切れ途切れに言って、それから嗚咽した。
大量の涙が溢れて顎に伝って落ちた。
堪え続けてきた感情が、堰を切って一気に吐き出されたかのように彼女は泣いた。
涙の量は息子を失った巨大な悲しみの量だと思った。
これまで玲子は誰かに深い悲しみの涙を見せる機会がなかったのではないか?
それくらい彼女は身体を震わせながら泣き続けた。
俺は発するべき言葉も思い浮かばなかったが、玲子が抱き続けていた悲しみの深さを理解できたような気がして彼女をさらに強く抱き締めた。
「主人もショックでしばらく何も手につかなかったし、責任をどう取ってよいのか分からないままうろたえていて、それから一ヶ月あまり経ってから離婚してくれって言うから応じたのよ。
リョウがいなくなってしまって、私とふたりだけで暮らすことが精神的に耐えられなかったのね」
俺の胸に顔を埋め、呟くように玲子は言った。
「でもそれは酷いな。ふたりで励ましながら、リョウ君を失った悲しみに耐えていくのが夫婦というものじゃないのか?」
「もういいのよ、終わったことだから」
玲子は俺の腕を解いてリビングに戻った。
俺は息子の遺影に手を合わせ、それからシャワーを浴び、玲子と向かい合ってよく焼けた厚いトーストと半熟卵を食べた。
彼女の半熟卵は本当に半分だけ茹でられていて、コツコツと叩いて卵の上の部分を割り、小さなスプーンですくって食べるのだ。
「この卵は有精卵なのよ。しかも半熟だから濃厚で美味しいの。精力もつくのよ」
「こんな濃厚な半熟卵は初めてだな。本当に精がつきそうな気がしてきたよ。じゃもう一度だめかな?」
「いいけど、私たち、まるで獣ね」
「人間本来の姿だよ」
俺はもう一度玲子を抱いた。
こころと身体の快感が理性を突き破って、果てしなく快楽を求め合った。
玲子とつながっていると、この世との関わりのすべてがもうどうでもよい気持ちになるのだ。
今なら何のためらいもなく明香のもとへ飛んで行けると思った。
明香、辛かったろう、苦しかったろう、どうして自殺なんかしてしまったんだ、なぜ俺に連絡して来なかったんだ?
でも、もうすぐ俺も行くから待っていてくれ、明香。
「このまま、俺は、死んでしまいたい」
俺は玲子を腕の中に包み込み、彼女の目を見つめながらひと言ずつ区切るようにして強く言った。
自分が発した言葉に、明香への懺悔の気持ちが絡みつき、感情を抑えられずに俺の目から涙が噴き出た。
「どうしたの、あなた泣いてるじゃないの」
「人間だからな、泣くことも、死にたく思うこともあるさ」
「いいわよ、一緒に死にましょう」
その声と同時に、俺は精も根も尽き果てて玲子の上に崩れ落ちた。
「あなた、別れた奥さんは今どうしているの?」
ようやく身体を離して仰向けになった俺の顔を、上から覗き込むようにして玲子は聞いてきた。
「妻のことか?そうだな、俺と別れてからつまらない男に騙されてな、実は今年の一月に自殺してしまったんだ。可哀相に、きっと絶望してしまったのだろう。俺に責任がある」
「そうだったの・・・でもどうしてあなたに責任があるの?」
「妻を大切にしてやれなかったからな。仕事を口実に酒ばかり飲んで、彼女に寂しい思いをさせてしまった。離婚を求められても何も言えなかったんだ」
「でも、自殺はあなたが直接の原因じゃないんでしょ?」
「いや、俺が原因だ。この前、あんたは家族って大切だ、人間はひとりじゃ生きていけないって言っていただろ。彼女は俺と別れて、ひとりで寂しさに苦しんだに違いない」
「でも、あなただって別れてからひとりじゃない。自分ばかり責めることはないわ」
「俺はずっと好き勝手ばかりしてきたどう仕様もない男なんだ。妻は俺と一緒のときも別れてからも、ずっと辛い日々だったに違いない。もっと大切にしてやればよかったんだ」
涙が止まらなかった。
俺の身体のどこに涙の貯蔵タンクがあったのか分からないが、止めどなく流れる涙は両耳へ伝い落ちた。
どれだけ涙を流したところで、この世にいない明香に届きはしないが、付き合っていたころや結婚当初の彼女の笑顔が脳裏に現れた。
まるで俺の大量の涙に天国から引き寄せられたかのように、不安の欠片も見えない明香の純粋な幸せの笑顔が突然現れた。
それと同時に、最初に出会った頃の気持ちが、こころの奥底から蘇えってきた。
俺はしばらく黙ったまま泣き続けた。
「可哀相な人」
玲子はそう言って俺の涙を唇で吸った。
「あなたも大切な人を今年亡くしたのね。おかしなものね、最初に地下街で声をかけられたとき、何かを感じたのよ。あなたの切羽詰った目の中に深い悲しみが映っていたの」
「本当かな?」
「ええ、確かに映っていたわ」
「それはたまたまその日の債権者集会でガックリきていたからだよ。俺なんかよりあのときのあんたは凄かった。
シャネルのバッグを振り回しながら、夢遊病者のようにフラフラと歩いていたし、身体中から強烈な倦怠感が漂っていたからな」
「また言う。バッグを振り回していたという言い方やめて」
「でも本当にそうだったんだ」
午後二時ごろになってようやくベッドから出た。
玲子は「あなたが本当に死にたいのなら私を道連れにして」と言った。
「私にはもう何もないの。リョウ君のもとに早く行ってあげないとね。あの子、食べ物の好き嫌いが多かったから心配なのよ」
「俺の妻も天国で寂しがっているに違いないし、謝罪をきっと待っているだろうな。俺がこの世で生きているうちは、どんなに彼女に懺悔したって届かないし意味がない。
同じ位置に立ってこそ可能なんだ。じゃあ、一緒に死ぬ方法と場所と日程をあんたに任せる」
「本気ね?」
「俺にチャンスを与えてくれないか。本気だ」
「途中で絶対に気が変わったりしないわね?」
「ひと思いに行こう」
俺は玲子にそう言い残して部屋を出た。
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