第9話

        玲子 五

 

 玲子が俺の顔に落とした涙の雫の意味は、いったい何だったのだろう。

 俺は最初に玲子を抱いた瞬間から、彼女とはどこか別の世界で親しい関係だったような不思議な感覚があった。


 玲子は今年の五月に息子が事故死したと言っていた。

 息子の事故死、投げやりな言葉と態度、俺が玲子へ抱く気持ちは、この浮世に於いて男が女に抱く感情のリストには載っていない不可思議なものだった。

 彼女がこころに所有する念に通じる俺のひとつの感情があり、常に共通の念を強く感じていた。

 それは明香を自殺に追いやったことへの悔恨の念に違いないと俺は思った。

 

 仕事への意欲を次第に失い始めていた十月半ば、幸子さんが帰ってから残務を行っていたら玲子から電話があった。


「もし今夜、予定がなければうちへ来ない?」


「予定があったとしても、すべてを投げ打って行くよ。場所を教えてくれないか」


 玲子は先日送って行ったファミリーレストランの駐車場あたりで午後七時に待っていると言った。


 車を飛ばして少し早く着いてみると、レストランの入り口近くに彼女が立っていた。


「このレストランで何か食べてから君の家に行こうか?」


「お料理は作ってあるのよ。家に来て」


 車をそのままにして彼女のあとに続いた。


 玲子の家は、並走する中国自動車道と中央環状線の側道から南へ入り、少し坂を下ったところにある五階建マンションの一階だった。


 部屋は広いリビングルームがあり、その奥にふたつの部屋の扉が見え、広めの二LDKの間取りだった。


「すごく良い匂いがするね」


「朝からビーフシチューを仕込んだのよ。嫌いじゃないわよね」


「大好きだよ」


 俺は我慢ができず玲子をうしろから抱きしめ、顔を引き寄せて唇を合わせた。


「駄目よ、食事をしてからね」


 リビングのほぼ中央には平テーブルが置かれていて、俺と玲子は縄を編み上げた薄い座布団に足を崩し、向かい合った。


 部屋には家具や調度の類は少なく、その分ゆとりのあるリビングだが、焼き板を組み込んだような重厚な箪笥やトラディショナルなドレッサーなど、いずれも洒落た感じだった。


 エスニックな置物や竹を編んだフロアランプも、特に高価なものではなさそうだが薄暗く広い部屋にぴったりフィットしており、それらひとつひとつに彼女のセンスの良さが窺えた。


 玲子が用意してくれていた料理は、ビーフシチューと手作りのグラタン、そしてサラダとブルーチーズが添えられていた。

 よく冷えた赤ワインを一本、ふたりで飲んだ。

 料理の味は、すぐにビストロでも開けそうなほど素晴らしかった。


「どうして今夜、急に呼んでくれたんです?」


 急に招かれたことを不思議に思って、俺は率直に聞いた。


「それは・・・お別れだからよ」


「えっ?」


「もう何もかもおしまいにするの。だからお別れ」


「どういうことなんだよ」


「嘘よ。でも、あなたっていつも正直なのね。今も一瞬目をむいていたわよ」


 玲子は悪戯が成功したときの子供のような勝ち誇った表情を見せて、「フフフッ」と満足気に笑った。


「急にそんなことを言うからだよ。俺たち知り合ったばかりで、会うのは今日がまだ三度目だからな」


「でもその三倍の回数、セックスしているわよ」


 俺は玲子の隣に身体を移しキスを交わした。


 俺たちは食事を終えたのか途中なのかも分からないままリビングを出て、そのままベッドに倒れ込み、シャワーも浴びずにすぐにつながった。


 束の間の快楽のあと、身動きさえできないほどの疲労と、死と隣り合わせのような快楽の中、このまま本当に死んでしまっても俺には失うものは何もなく、今なら明香の元に行って跪き、数え切れないほどの罪を懺悔できるに違いないと、深く泥のような眠りに落ちていきながら思った。


 俺は一刻も早く裁かれたかった。


 翌日、目が覚めるとベッドに玲子の姿はなく、俺ひとりが全裸の身体に羽毛布団を巻きつけていた。

 部屋を出ると、彼女はリビングの奥のキッチンにいた。


「タフだな、あんたは」


「おはよう、タフじゃないわ。もう足腰がガクガク。私たちよくこんなにセックスだけで付き合えるわね。男女って、面倒くさい恋だの愛だのって要らないんじゃない?」


 玲子は厚いトーストを焼き、半熟卵を作っていた。


「俺はあんたを愛してしまいそうだよ」


「あり得ないわ」


 玲子は首を振って笑った。


「隣は誰の部屋なんです?」

 もうひとつの部屋が気になった。


「息子の部屋だったのよ。今はすっかり片付けてしまって何もないんだけど」


 俺はドアを開けた。

 そこにはシングルベッドと勉強机と、そして小さな仏壇があった。


 ベッドの布団はふんわりと綺麗に折り畳まれ、今朝まで誰かが寝ていたかのような息遣いを感じた。


 きっと玲子は、今でも天気のよい日には息子の布団を干しているのだろう。

 勉強机には本の類や文房具など何もなく、息子が書いた落書きと彫刻刀の傷だけが寂しく残っていたが、机の横のフックには、持ち主がいなくなってしまった黒のランドセルが掛けられていた。


 仏壇に飾られた男の子の遺影は、そのランドセルを背負って恥ずかしそうに笑っていた。

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