第8話
明香 一
俺は玲子と別れたあと、再び大阪市内へ向かって車を走らせた。
「あなた、奥さんや子供さんは?」
さっき彼女は肌を合わせながらそう聞いてきた。
俺と妻・明香(サヤカ)との結婚生活はわずか三年だった。
結婚して間もなく金融ブローカーとして独立したのだが、それからの俺は家庭を疎かにしてしまった。
妻との間に子供がいなかったので、家庭とは呼べなかったのかもしれないが、結婚したころの質素な暮らしから一変して、街金業界で独立後の俺は、こころも暮らしも傲慢になってしまい、仲がよかった新婚当初とは性格がすっかり変わってしまったことを、明香は俺に何度も指摘し、嘆いた。
だが俺は彼女の言葉を素直に聞入れることなく、ふたりの時間をほとんど持たない暮らしを変えようとはしなかった。
「前はたまの接待さえ嫌やって言うてたのに、独立してからのあんたはおかしいわ。何でそんなに毎晩浴びるようにお酒ばっかり飲むの?前と人が変わってしもうたみたいや。
私、お金のやりくりしてたときのほうが幸せやったわ。こんなん、ひとりで暮らしてるのと同じやないの。私ら夫婦とちがうの?」
明香はそう言って不満をぶつけてきた。
サラリーマン時代よりもはるかに多い収入を得るようになって生活は豊かになったが、妻との関係は豊かさに反比例して次第に朽ちていくのが実感として分かっていた。
ふたりがつながっている「こころの橋」というものが存在したとすれば、それは日に日に老朽化し、ついにはひび割れて崩落寸前になっていた。
俺は金貸し連中が「命より大事な金」と言って憚らない金銭を扱う仕事で神経をすり減らし、その疲れを酒と行きずりの女で紛らわし、毎夜のように疲弊した神経を麻痺させなければ、翌日の仕事に対する闘争心が保てなくなっていたのだ。
妻とのひととき、妻との身体の触れ合いでは、こころの疲れを消せなかった俺は、明らかにどうかしていた。
「私、あんたとは終わりにしたい。昔のあんたはもっと純粋やったわ。何でそんなにお金にばっかり執着するの?こんな暮らしのどこが楽しいの?お願いやから別れて」
明香は泣きながら離婚を切望し、俺は反論の余地などあるはずもなく、彼女の要求を受け入れた。
俺が三十三歳のとき、もう五年も前のことだ。
子供をもうけないままゲームオーバーとなったことだけが救いだったのかも知れない。
離婚した俺は、金に携わる仕事の疲れを、相変わらず酒とその場限りの女に委ねた。
ひとり暮らしのマンションと小さな事務所の往復の日々が続き、絶望的な孤独感に襲われると、それを麻痺させるために毎夜飲み歩き、そして誰も待つことのない冷たい部屋に帰った。
ひとりでいることに耐えられないほどの絶望的な寂しさに襲われることも度々あったが、明香を幸せに出来なかった俺は裁かれるべきなのだと、その孤独を受け入れた。
別れて一年余りが経ったある日、明香から電話があった。
昔、彼女とよく立ち寄ったバーのマスターが突然亡くなったとの知らせだった。
マスターの姉の家に、俺と一緒に弔問に訪れたいと連絡してきたのだ。
俺と明香は再会した。
だがそのとき、彼女は三歳年上の男性と大阪市内で同棲していると打ち明けた。
俺はショックのあまりに混乱し、長時間彼女と一緒にいるのが耐えられず、立っていることさえ辛くなってしまった。
でも過去に多くの苦しみや寂しさを与えた罰として事実を受け止め、その男性との幸せを祈って別れた。
それが明香と最後に会った日のことだった。
その日から三年半ほどが経ち、まだ正月気分が抜けていなかった今年の一月十日過ぎのこと、突然の訃報が届いた。
連絡してきたのは明香の父だった。
奈良県警を定年退職していた元義父は意外に落ち着いた声だった。
「娘の手帳にこの電話番号があったので連絡しました。お元気ですかな?」
最初、彼がなぜ連絡してきたのかが分からなかった。
だが、明香の父が連絡してくるということは、彼女に何かあったこと以外に考えられず、そしてそれは的中した。
「実は、娘が死にました」
「娘が」のあと三秒ほど間をおいて「死にました」と絶望的な声で彼は言った。
俺は言葉の意味をすぐに飲み込めず、明香が自ら死を選んだのだと分かるのに十数秒を要した。
「急なことですが、葬式に出てやってもらえませんか。どうか、娘にお別れを言ってやってください」
明香の父は俺に対する恨み辛みの類を一切言葉にも口調にも出さず、ゆっくりとそう言った。
葬儀は連絡を受けた翌日、生駒市内にある明香の実家で行われた。
奈良県警の要職を務めた人物の娘のものとは思えないほどのひっそりとした葬儀だったのは、明香が天国に旅立ってしまった原因を無言で語っていた。
受付を済ませて、実家の敷地内に入ってすぐのところに明香の妹が立っていて、彼女は俺の顔を見たとたんに涙を流した。
涙の種類は分からなかったが、俯いた彼女の表情には無念さが表れていた。
「お義兄さんが姉と離婚さえしなかったら、きっとこんなことにならなかった」
彼女はそう言いたかったのかも知れないが、俺は彼女に対して何も言葉が出なかった。
明香の両親とも葬儀の終わりのあたりで挨拶を交わし、そこで父は死因について少し言葉を震わせながら静かに語った。
「娘は恋愛で悩んでいたようです。子供を産む年齢の限りというものもありますから、ずいぶんと焦っていたのでしょう。もう三十も半ばでしたからな。同居していた男性と結婚するという話を大分前から聞いていたのですが、実はその人には奥さんがいたのです。
正式に別れていないのに娘との結婚を仄めかしたのですな。娘はずっと知らなかったのですよ。昨年の年末から年始にかけて、その男性は奥さんのもとに帰ってしまったのです。子供さんもひとりいたということです。
ちょっと私らには理解し難いことですがね。まあともかく、娘は信じていたようです。それが裏切られたものですから、思いつめてしまったのでしょう。部屋で首を吊ってしまいました」
彼はそう説明したあとハンカチで目を覆った。
俺は自然と噴き出す涙を止められず、周囲の人の目を気にするこころも飛び去り、涙を拭うことさえ忘れて声を上げて泣いた。
どうしてこんなことになってしまったのだ。
俺が大切にしてやりさえすれば明香の人生はこんな結末にはならなかったはずだ。彼女を騙した男への憎しみよりも、責任の大部分はこの俺にあると思った。
俺は裁かれるべき人間に値した。
それからの俺は最期の機会と場所を求める毎日と変わった。
死に急ぐ理由も、果たして自殺を決行する勇気が本当にあるのかも分からなかったが、その行為に踏み込める引き金を求める毎日と変わった。
この世に生き長らえながら明香に犯した罪をどのように償おうかと考えても、彼女が存在しない今となってはその術はどこにも見当たらなかった。
たとえ懺悔の日々を送り続けたとしても、同じ世界にいない明香に俺の悔恨の気持ちが届くとは思えなかった。
同時に俺はもう様々なことに疲れて果てていたし、街金業界も少し前に出資法が改正されて上限金利もますます低くなり、独立したバブル経済破綻後の頃とは、この業界の環境は大きく変わっていた。
明香の死を知ってからの俺は、彼女が嫌がっていた街金業を廃業するタイミングと、俺自身が終わる機会とを考える日々となっていたのだ。
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