第5話
玉子 三
翌日、目を覚ますと隣に女性が寝ていた。
その女性が玉ちゃんであることはすぐに分かったが、なぜ彼女が俺と一緒に寝ているのかが皆目分からなかった。
窓から見えるJR大阪環状線福島駅のホームのラッシュアワーはすでに終わっており、時計を見ると午前十時を過ぎたところだった。
「おはよう、粂井さん」
俺がベッドに身体を起こした振動で玉ちゃんが目を覚ました。
「どうして玉ちゃんが横に寝ているんだ?」
「どうしてって、昨日の夜、安曇野を出て曽根崎通りのショットバーへ入ったでしょ。それから粂井さんが酔っ払ってしまったから、玉子がタクシーで送って来たんだよ。
もう重くて大変だったんだから。男の道とか渡世の仁義とか意味不明なことばかり叫んでいたし、本当に手に負えなかったんだからね。覚えてないの?」
玉ちゃんはベッドに肘をついて頭を乗せ、俺を見上げて言った。黒のスリップの胸元から少しだけ覗いた膨らみが、寝起きの朦朧とした頭の俺を戸惑わせた。
「玉ちゃん、俺・・・何もおかしなことはしなかっただろうな」
「おかしなことって?」
「だから、つまり、エッチとか」
「凄かったわ、まるで猛獣。明け方まで三度だよ。私もうクタクタ。憶えていないの?」
「マジかよ、有り得ん」
「マジだよ、有り得ないなんて失礼なこと言わないでよ」
俺はまったく記憶になかったばかりか、身体にも余韻のようなものは残っていなかった。
玉ちゃんは誰が見ても美人だし、安曇野には彼女と会える可能性を求めて店にくる客も多い。
そんな彼女との幸運を得たにもかかわらず、まったく覚えがないことに、俺はしばらく自己嫌悪に陥ってしまった。
「嘘よ」
瞼を指で押さえて絶句している俺に、玉ちゃんは笑いながら言った。
「えっ?」
「粂井さん、ベッドに倒れこんですぐに寝てしまうんだもの。スーツを脱がせるのがひと苦労だったんだよ。こんな美女とエッチできるチャンスだったのに、信じられない人」
玉ちゃんは口を尖らせて不満を言ったが、俺は過ちを犯していないと分かってホッとした。
「ともかく、出かけないといけない。携帯はどこかな?」
「エッチしないの?」
「ごめん、今日は法務局へ寄ってから、大事なスポンサーと会わないといけないんだ」
「そんなの駄目だよ」
玉ちゃんは俺に覆い被さってきた。唇が重なった。
昨日のモスグリーンの女とのキスとは種類が大きく異なる、ウオーミングアップのような軽くてぎこちないキスだった。
「玉ちゃん、今日は時間がない。ごめん」
俺は彼女の腕を解いてベッドから降りた。
「粂井さんの馬鹿。女が思い切って誘っているのに、絶対に許さない」
玉ちゃんはベッドに座ったまま怒ったが、俺は無視をして急いでシャワーを浴びた。
シャワー室から出ると、玉ちゃんはまだベッドでふて寝していた。
「玉ちゃん、俺、出かけるからな。ここにいてもいいけど、どうする?」
「もう本当に失礼な人。安曇野のママに小野さんに無理やり連れ込まれたって言ってやるからね」
玉ちゃんの過激な言葉を無視してポットで湯を沸かし、コーヒーを淹れ始めると、ようやく諦めてバスルームへほぼ全裸で飛び込んでいった。
彼女がバスルームから出てきたときには、リビングに置いている小さなテーブルに香り高い熱いコーヒーを用意してやった。
「このコーヒー、美味しい」
「そりゃあコーヒーにはこだわってるからな。ともかく玉ちゃん、スリップだけでも着てくれないか。目のやり場に困る」
「じゃあ今から抱いて」
「抱いてってそんなに簡単に言うなよ。俺だって男だから、本当はすぐにでも玉ちゃんに飛びかかりたいんだ。
でもな、今日は急ぎの仕事が待っているんだ。商売をしていると仕事を放っておけないからな、仕方がないんだよ」
「だったらやろうよ、エッチ。仕事とかエッチなんて、そんなに深く考えなくていいじゃない。心配しなくなって、玉子はあとでグダグダ言うような面倒くさい女じゃないからね」
「玉ちゃん、どうしてそんなに投げやりな言い方をするんだ?そんな言い方は良くないぞ。俺が悪い奴だったら抱くだけ抱いてそれで終わりなんだぞ。
そんなのでいいのか?俺はやり逃げみたいなセックスは嫌だな。玉ちゃんは前からいい子だと思っていたよ。でもまだ男女の関係に突入するわけにはいかない。あらゆる物事には順序があるからな」
俺は昨日のモスグリーンの女とのことを棚に上げて、説得力のないことを言っていると思いながら玉ちゃんに説教じみたことを言った。
「朝から何言ってるの、変な人。あらゆる物事には・・・なんて、そんな難しい言い方しないでよ。でも粂井さんの言うことも分かる気がするよ。じゃあ順序どおりに約束して」
「分かったよ、順序を経てからだな」
この出来事がきっかけで、玉ちゃんからたびたび電話がかかってくるようになった。
ときには深夜の寝入りばなを襲われることもあったが、そんなとき彼女はたいてい酔っていた。
「玉子です。ごめんなさいこんな夜中に」
「かまわないけど、どうしたの?」
「どうもしないけど、眠れないから」
「また飲んでるの?」
「飲んでいけないって法律、あるの?」
「明日も仕事なんだろ?体調に気をつけないといけないよ。ご両親はもう寝たの?」
「両親なんていないから」
「えっ?」
「もういい、おやすみなさい」
少し不機嫌になって彼女は電話を切るのだ。
「今夜飲みたい」といきなり誘ってくることも何度かあった。
二回に一回は応じて、特別な関係でないことを示すためにも「安曇野」にふたりで顔を出すようにはしていたが、いったい彼女の私生活はどうなっているのだろうかと、気にしないわけにはいかなかった。
「玉ちゃんと最近よく会っていますね。母のところでバイトをしていたころはあんなにお酒を飲まなかったらしいの。今年の春ごろから酔って店に来るようになったって」
幸子さんは事務所でそう言っていたが、それ以上のことは分からないらしい。
一緒に飲んだときも、「いつ約束を果たしてくれるの」と言ってたびたび俺を追い込んできた。
「俺は玉ちゃんをどうにもできないんだ。もうすぐ俺は遠くに行ってしまうからね」
「どういうこと?」
「だから、俺はいつどうなるか分からないんだ、玉ちゃん」
「粂井さんって、ときどき意味分かんないことを言う。ひどい酔っ払い」
玉ちゃんは不服そうだったが、俺は酔っ払っているわけでもないし、理由をいちいち説明する気もなかった。
俺は早く遠くへ行きたいだけで、この半年ほどその方法と引き金と時期とを模索していたのだ。
できるだけ早く遠くへ行って、これまでの罪を償いたいと、そのことばかり考えていた。
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