第4話
玉子 二
「あら粂井さん、来てくださったのね。こちらへどうぞ。幸子はちょっと中を手伝って」
幸子さんは不服そうな顔をしながらカウンターの中に身体を入れた。
俺は唯一空いていたコの字のカウンター席の隅から二番目の位置に座った。
隣の隅の席にはときどき見かける玉ちゃんというOLがいたが、彼女はすでに酩酊気味、壁側に身体を寄りかけて今にも椅子からずり落ちそうだった。
「幸子がいつもお世話になっています。ときどき銀行へ行く程度で、あとは電話番とパソコンへの入力だけだから、受験勉強がいっぱいできるって喜んでいるのよ」
女将さんは「お通し」と、この日のおすすめ料理を出しながら、まんざら挨拶代わりとも思えず、目を細めて俺に礼を言った。
「お母さん、粂井さんったらね、帳簿は適当でいいって言うのよ。それじゃ私がお手伝いする意味がないでしょ?」
「すみません、幸ちゃんに叱られてしまいました」
「ごめんなさいね、遠慮のない娘で」
「いえ、すごく助かっているんですよ。息が詰まりそうな狭い事務所で申し訳ないと思ってますけど、幸ちゃんがいてくれるおかげで安心して外回りができるんです」
長く手伝ってくれた女性が辞めてから、俺は顧客やスポンサー先、銀行などを一日中動き回り、外から帰れば留守番電話の再生、そして翌日の段取りや顧客と電話での打ち合わせ等々、仕事以外のことを頭に浮かべるわずかな瞬間さえもなかった。
昼間は虫の息遣いさえも感じない暗く無表情な事務所に外回りを終えて戻ると、無意識に呻くようなため息を吐き、一刻も早く立ち去りたい焦りの気持ちで最低限の雑務を終えたあと、ようやく歓楽街に出て、深夜まで酒で疲れを麻痺させる日々を送っていたのだ。
そんな暗鬱な事務所が、幸子さんが来てくれた日に再起動され、彼女の屈託のない笑顔によって雰囲気が大きく変わった。
スポンサーや顧客から電話が入っても無機質な留守番テープが流れるのではなく、彼女の明るい応対によって、以前のように安心感と信頼を与えられるようになったのだ。
「粂井さん、相変わらず儲けてはりまっか?」
よく見かける印刷屋のオヤジだ。
「いえいえ、青息吐息ですよ」
常連客が多い夜はかえって居心地が悪い。
表向きは冗談を吹っかけくるが、皆が俺に対して妙に気遣っている様子が分かるのだ。
街金なんかを張ってる男とは酒の数杯以上の関わりなど持ちたくない雰囲気が、コの字のカウンターの上に梅雨空のようにじっとりと漂っていた。
娘さんを預かっている手前、ときには店を覗くが、居心地は決してよくない。
「粂井さん、幸ちゃんに手を出したらあきまへんで。私らいつも心配してまんのや」
「ホントですよ、粂井さん。小さな事務所でふたりきりなんでしょう?そりゃあ心配だなあ」
俺と同年齢位の常連のサラリーマンふたりが、冗談を浴びせてきた。
店の他の客たち誰もが冗談と分かるチャラけた言い方で、奥の小さな座敷席にいた常連客もハハっと声を上げて笑っていたが、すべてが冗談とも受け取れない、本心の欠片がふたりの言葉の裏に張り付いているのが俺には分かった。
「何を馬鹿なことを言ってるの」と女将さんが窘め、幸ちゃんも屈託のないいつもの笑顔で「粂井さんは安全パイ」などと、おとなびた言葉で応え、そして俺は「昼間はほとんど事務所にいませんからね」と、唇の端を動かして苦笑いした。
ところが場がザワザワとほぐれていたそのとき、隣の席で酩酊気味になっていた玉ちゃんが、いきなり首を上げて大声を出した。
「そんなの、粂井さんが幸ちゃんに手を出したりするはずないじゃない!あんたたち、ちょっと頭がおかしいんじゃないの?」
驚いて彼女を見ると目は完全に据わり、普段は大きなその目が次第に遠くを見るように細くなっていった。
あちこちで聞こえていた話し声や笑い声がプツンと切断され、五秒間ほど音源が途絶えたように止まった。
それくらい彼女の言葉と声はインパクトがあった。
「玉ちゃん、ワシら本気で言うてへんがな。なんも心配なんかしてへんって」
「そうそう、ジョークだよ、玉ちゃん」
睨みつける玉ちゃんの視線にたじろいださっきのサラリーマンふたりが、ハンカチで額の汗を拭きながら、バツの悪そうな顔で言い訳をした。
「冗談よ、玉ちゃん。でもあんた、ちょっと飲みすぎよ。いい加減にしなさい」
女将さんが玉ちゃんを窘めた。
「いいのよ、明日は休みにしたんだから。もう一杯ちょうだい」
彼女は短大生のころ「安曇野」にバイトに来ていたのがきっかけで、今春卒業して大阪市内の温水器会社に就職後も、ときどき店に立ち寄っていた。
スタイルのよい現代っ子で、きっと男性に人気があるはずだが、いつもひとりで店に来ているおかしな子だった。
「粂井さん、今夜はまだまだこれからでしょ。玉子を別の店に連れて行って」
「玉ちゃん、そんなこと言っちゃだめでしょ。粂井さんだって疲れているんだから」
女将さんの窘めも気にせず玉ちゃんはコップ酒を飲み続け、ついには俺の右肩に頭を乗せて笑い出した。本当におかしな子だ。
「よし玉ちゃん、今夜は飲もう。俺も久しぶりにムシャクシャしてるんだ」
玉ちゃんを連れて店を出た。
背後で常連客たちの「は行」のため息が聞こえたが、俺は気にせず彼女の腰を抱きかかえ、中通から東通りをぶち抜いて曽根崎通りへ歩いた。
裁判所は正義の味方ではない。
酒の酔いとともに、この日の苛立ちが唸りを伴うようにして再び蘇えってきた。
俺は奴に「嘘つきの腰抜け野郎!」とだけ浴びせたかったのだ。
あんな奴を匿うなんて、弁護士も裁判所も決して正義の味方などではない。正義の味方ではなく弱者の味方なのだ。
弱者の味方になることが正義であるなどと、司法は大きな勘違いをしている。
「玉ちゃん、この世の中に正義の味方なんていないぞ。自分のことは自分で守るしかないんだぞ!」
俺は夜空に向かって叫んだ。
すれ違うサラリーマンやOLが俺を見て笑っていた。
「粂井さんって、変な人」
玉ちゃんは俺を馬鹿にしたように笑った。
俺は変じゃない、変じゃないけど、駄目な男なんだ。
たったひとりの女性さえも幸せにできなかったのだから。
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